トコロかわれば・・・
鷲尾 亜子
ハンガリーで苦手なものが、三つくらいはある。一つはサロンナ(豚の脂身)バーベキュー。野外で火を囲んでじっくりあぶって食べるのが、ハンガリー風。魚の切り身の2〜3倍の大きさで、肉の部分など1ミリもない。数年前このバーベキュー大会に招かれたので、若干怖かったが、生来食い意地が張っている私はいただくことにする。しかし、やはり日本で純粋培養された胃には、拷問だった。4分の1も食べられない。そして、当然のことながらその晩は、ひどい胃痛のため脂汗を出し、のたうちまわる結果となった。
もう一つ苦手なものは、ハンガリー人と会話をしているときに出てくる「ところで、こういうジョーク(vicc)知っている?」である。この枕詞が出てくると、「意味が分からなかったらどうしよう、、、」と今度は緊張のあまり、鼓動が激しくなり、冷や汗が出てくるのである。
ハンガリー人は(欧米人は、そして特にユダヤ系は、と言うべきかもしれないが)ジョークが好きである。人の噂話や身の回りの出来事を普通に話していると、「あ、いいジョークがあるよ、知ってる?」と来る。
たとえばこんな風だ。何人かが義理の母の陰口で盛り上がっていたとする。この場合、夫の母のみならず、妻の母もよく話題となる。そこであの枕詞が出て、「問い−真の複雑な心境とは何だ?」となる。一同がぴたりと静まって2−3秒考えているのを見て、語り手はすかさずこう言う。「答−自分の買ったばかりの新車に乗った義理の母が、崖から落ちるのを見ること。」もちろんその後は笑いの渦。今まで「お義母さんのひどさには閉口している」といったギスギスした気分が、何となく和らげられるらしい。(少なくともその場は)
ジョークの効用は、まさにここにある。ネガティブな状況を笑い飛ばし、たくましく生きていくのである。迫害されてきたユダヤ系がジョーク好きなのもうなずける。
日本人どうしだったら「そんな、縁起でもない」となりそうだ。悪口でどんなに盛り上がっていても、「まあ、そうはいってもお義母さんも苦労してきたし」とか、「淋しいんだろうし」、「やはり大切にしてあげないとね」と儒教的に収まるかもしれない。
このように、ハンガリーで耳にするジョークは「ほのぼのする笑い」と言うより、乾いたもので、かなり辛辣なものが多い。ロンドンで育ち、ハンガリー人の母、イギリス人の父をもつ男性友人にハンガリーのジョークについて聞いてみたら、「イギリスのものに較べて、皮肉が非常に直接的。相当強烈で、下品だったりする」と返ってきた。と同時に、「頭がそれなりに柔軟でないと、ついていけない。僕もわからないことが多い」とも言っていた。おしゃべりな彼は、2センテンスに1回は面白いことを散りばめて言うタイプなので、後のコメントは意外であった。
確かに、ハンガリーでのジョークは、最後のオチが意外であるが故に笑える、というものが多い。もちろんジョークも玉石混合で、質が低くつまらないものも多いが、質の高いジョークは、日常の常識的な考えを破りつつ、人間や事柄の本質や特性を語っているからこそ笑えるのである。ジョークの達人は、絶妙なタイミングで会話やスピーチの中でジョークを過不足なく挿入する。
ジョークの対象にはなんでもありだが、頻繁に標的になるのは、警官やブロンド美人(無知や愚かしさを笑う)、ユダヤ人(利にさとい悪徳商人などの特性を笑う)、医者、弁護士(人の弱みにつけ込んだ職業の特性を笑う)などがある。その他、牧師やラビを話題にしたものもあるし、民族の特徴や、時の指導者、政治体制をからかったものも多い。時には自嘲的なものもある。しかし風刺があまりにも効きすぎていたり、人種・性別的偏見ともとれるようなものがあったりすると、善良な日本人は笑えなかったりする。
こうしたジョークの神髄を味わうためには、ジョークの背景を少なからず知っていること、そして意外性のある論理展開を素早く理解できる柔軟な頭があることが大事だ。そのため、ウィットに富み、記号論的なジョークは知識人たちの間で好まれるし、ハンガリー人が数学や発明が得意であることや、意表をつく論理展開をする(時には単なる屁理屈)というのは、この意外な発想の訓練が一助となっているのかもしれない。
だからこそ、ジョークのお披露目になると、私はどきどきしてしまうのである。日本人だから、ハンガリーや旧共産主義緒国、ユダヤ人に関する特殊な背景を知らないのはまだ言い訳がつくにしても、頭の柔軟性になると、全く自信がない。
二人で話しているときはまだいい。会話の速度が速ければ途中で言い直すようお願いすればいい。可笑しさがわからなければ、もう一度言ってもらってもいいし、種を明かしてもらってもいい。(種明かしされたジョークほどつまらないものはないが)
問題なのはグループの時だ。ただでさえ自分にとっては外国語なので、一語一語漏らさないようにと神経を尖らすから、すでにへとへとだ。意味がわかったときは、可笑しいという気持ちを通り超えて、安堵感で必要以上に笑ってしまう。逆にわからなくても、他のみんながどっと笑えば、サッカー競技場でウェーブを作るのと同様にあわせて笑い、早く他に話題が転じることをひたすら祈る。ウェーブ作りで盛り上がっているところ、一人だけ立ち上がって手を挙げないのは勇気がいるのだ。だから挙げたくなくても挙げてしまう。しかし、わからないままでは気持ちが悪いので、夜、床について聞いてジョークを一人復唱してみる。それでも何故可笑しいのかわからない。うーん。そのうち面倒になって寝てしまう。
「日本人は生真面目だから、わからないんだよ」
ジョークがわからない、と夫(ハンガリー人)に告白すると、こうレッテルを貼られる。確かに、「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」が巷で流行したとき、ある小学生の校長先生が「児童が横断歩道を無視するのを推奨するようで、けしからん」と眉をしかめた、という逸話があるくらいではある。しかし、これは生真面目かどうか、というよりも、単なる文化の違いではないか。日本にだって、川柳や落語、というれっきとした笑いの文化がある。日本人が笑わないわけでは決してない。ハンガリー人のように子供の時からサロンナをもりもり食べていれば、大人になって私のような苦痛を味わうこともないだろう、というものだ。
しかし、ここで夫を始め、他のハンガリー人の友人知人を今ひとつ説得できないのは、「それじゃ、一つ日本のジョーク、披露してよ」と言われて、そんなとはもちろんできないからである。新聞や雑誌の片隅で詠む川柳は、クスッと笑っても、わざわざ暗記して他人に伝達するようなものでもない。落語は、と言えば、たとえば「居残り左平次」のあらすじは知っていても、語ることなど到底できない。(もっとも高田文夫氏の「江戸前で笑いたい」によると、昭和20年代生まれの下町の子供達は、落語の2−3話くらいは覚えていたらしい。)落語は素晴らしい落語家が語ってこそ、その醍醐味を味わえるのである。それに、だ。我が家にはお扇子もないし、羽織もない、座布団すらないのである。居間のソファーに座ってゆらゆら上半身を動かしていては亜流である。やはり座布団でないと。おかげで、日本人=頭が固いという短絡的な図式を打ち破れずにいる。
共産主義という、一般国民には抑圧された状況を生み出す政治体制が、ジョーク文化にどのような影響を与えたか定かではないが、ハンガリーを含む東欧で数え切れないほどのジョークが生まれたのは確かである。(北朝鮮では謎であるが、儒教的思想をもつ民族と考えると多分ジョークは皆無、と推測する。)共産主義時代に流行ったという秀逸なジョークをいくつかここにあげてみる。
(問い)共産主義と、汚物でいっぱいのトラックとの違いは?
(答え)トラック
まだ旅行の自由もなかった時代である。ある男が資本主義国を周遊し、ハンガリーに戻ってきた。周りは興味津々に「どうだった?」と口々に聞いた。「我が国政府は、資本主義のことを、敗退して崩壊寸前、いずれ死に至る、と言っているけど、、、それが本当ならば、僕はああいう風に死にたいなぁ」
小学生のモーリツカ(ユダヤ系男児の愛称)と担任教師の会話。
先生「モーリツカ、昨日はどんなことがありましたか」
モーリツカ「昨日は、うちの猫が8匹の共産主義の子猫を産みました」
先生は「共産主義の子猫?」と思ったが、あえて「それは素晴らしいですね」と言うにとどまった。そして、翌日以降もモーリツカは「うちの共産主義の子猫は、元気にお母さんのおっぱいを飲んでいます」などと毎日報告した。
そして1週間後、教師が「共産主義の子猫たち、元気ですか」と聞くと、「もう子猫は昨日から、共産主義ではなくなりました」とモーリツカ。先生は不思議に思ってその訳を聞くと、
モーリツカ「ようやく目を開けたからです」
最後のジョークは、共産主義時代に生まれ育った夫が、ユダヤ人であるがため大戦中迫害を受けた父に聞いたものだ。民主主義、資本主義になった今でも、ハンガリーではあいかわらず老若男女問わずサロンナを食べているが、もしかしてこの類のジョークはわからない、という若者がすでに増えてきているのかもしれない。
(パプリカ通信2003年11月号掲載)