盛田 常夫
ノイマン・ヤーノシュ(Neumann János)は1903年12月28日にブダペストで生を受けた。この12月末でちょうど生誕百年になる。ハンガリー情報・通信省は2003年を「ノイマン年」に決め、各種の記念行事を支援している。情報・研究開発立国を目指すハンガリーにとって、ノイマンは世界に誇る「ハンガリーの顔」に違いない。
ハンガリー人に「天才」と呼ばれる科学者は多いが、その彼らが声を合わせて語ったように、ノイマンは「天才の中の天才」であった。ハンガリー民族史の中の最高の頭脳であることは間違いないが、20世紀人類の数少ない大天才の一人であり、ルネッサンス型天才としては唯一の存在だったといっても良い。この機会に、ノイマンが20世紀の科学に残した貢献を確認しながら、ノイマンが育った20世紀初頭のハンガリー社会や教育にも思いを巡らしてみたい。
物理学、情報理論や経済学など、個別の学問分野で最初にノイマンの名前に出会った人々は、ノイマンをその分野の専門家だと思いこんでいる。ノイマンが貢献した科学分野はこれにとどまらず、気象学、工学、生物学など広い領域に及んでいる。しかし、これらの分野の発展に大きな刺激を与えた科学者である前に、なによりもまずノイマンは20世紀を代表する数学者である。
19世紀から20世紀にかけて、数学は大きな変貌を遂げようとしていた。カントールが開拓した集合論を公理論的な体系に築こうとしたのが、この時代の数学界をリードしたヒルベルトである。1900年にパリで開催された第二回国際数学者会議でヒルベルトが提起した「23の未解決問題」は、20世紀を通して数学者の研究目標となった。ヒルベルトはカントールの素朴な集合論を、公理的な基礎の上に位置づけ直すことで数学体系が完成すると考え、公理的な手法を推奨・主導する学派を形成していった。ゲッティンゲン大学のヒルベルトに対抗したのが、アムステルダム大学のブラウアーである。抽象的な公理より、直感的な数理を優先するブラウアーは、ヒルベルトに対抗する現代数学形成期にもう一つの学派を形成した。
19世紀から20世紀にかけて、カントールによって、数学の世界に「無癌」概念が埋め込まれた。その結果、新たな難問が生まれた。たとえば、「ヒルベルトの23の問題」の第1問題は、いわゆる「連続体仮説」である。無限に「濃度」はあるのか、無限の濃度を比較することができるのか、無限の集合はどのように順序づけできるのか。これらを公理論的に体系化できれば、現代数学の基礎ができあがる。
当時、ハンガリーには現代関数解析の創始者であるリース(セゲド大学)と複素解析のフェイェール(ブダペスト大学)の世界的な数学者がおり、ハンガリー科学アカデミーはノーベル賞から排除された数学にたいして、ハンガリーが生んだ非ユークリッド幾何学の創始者ボヤーイ・ヤーノシュを記念した「ボヤーイ賞」を創設した(1905年)。いわば数学のノーベル賞だった。第1回の受賞者がフランスのポアンカレ、1910年の第2回受賞者がヒルベルト、第3回(1915年)の受賞者はアインシュタインである。オーストリア-ハンガリー帝国崩壊に伴い、ボヤーイ賞も消滅した。
ボヤーイ・ヤーノシュの父、ボヤーイ・ファルカシュは、1796年から1799年まで、ゲッティンゲンで数学史に残る大数学者ガウスと親交を結び、ユークリッド幾何学の基礎について議論を闘わせた。ボヤーイ21歳、ガウス19歳のことである。ガウスが大学者になるにつれ、手紙のやりとりは疎になっていったが、このような知的交流を抜きに、非ユークリッド幾何学は生まれなかっただろう。
これらの事例が示しているように、19世紀から20世紀にかけて、ハンガリーとヨーロッパの知的距離はそれほど隔たっていなかった。1902年はボヤーイ・ヤーノシュ生誕百年で、翌年にノイマンが生まれた。また、ブダペストには集合論を研究するキュニッヒ・ジュラがおり、「連続体仮説」を研究していた。キュニッヒは1913年に亡くなったが、同僚のキュルシャークがノイマンの数学教育の面倒をみた。数学者ノイマンの登場は突然変異でも何でもなく、ハンガリーの数学的伝統の中から生まれたものである。
ルーテル教会高校(Fasori Fõgimnázium)に入学したノイマンの数学的能力を発見した伝説的な数学教師のラーツは、ブダペスト大学の数学教授キュルシャークにノイマンの教育方法を相談し、彼の弟子たちがノイマンの面倒をみることになった。そのうち一人が、のちにスタンフォード大学の数学教授になり、カリフォルニア州で高校生の数学コンテストを始めたセグゥー・ガーボルであった。こうしてノイマンは10歳になるかならないうちに、専門の数学者から教えを受けるようになり、17歳にはもう数学雑誌に論文を発表するまでになった。当時のノイマンはすでにカントールの無限集合の公理的な体系確立を問題意識として持っていた。
一般に神童と呼ばれる天才的な子供がその能力を十二分に開花させ、学問の進歩に貢献できる確率は非常に小さいと考えられている。天才的な頭脳を育てるためには、これを支えることができる家庭、教育や社会の条件がなければならない。ノイマン家を含め、20世紀初頭のブダペストはその条件を備えていた。
高校卒業の後、ノイマンはブダペスト大学の博士課程に籍をおきながら、アインシュタインが卒業したスイス連邦工業大学とベルリン大学に在籍し、応用化学の勉強をするという回り道を辿った。スイス工業大学には数学の大御所ワイルがおり、ワイルはヒルベルトよりはブラウアーの陣営に属する数学者だった。ノイマンが17歳の時に仕上げた第二論文「超限順序数の導入について」は、カントールの集合の中に無限の順序数を導入する試みであった。ノイマンはスイスとドイツの大学で科学の勉強を始めるとともに、集合論の公理的な体系化をブダペスト大学の博士論文のテーマにしていた。
1922年には博士論文の草稿が出来上がり、これをドイツの数学雑誌に送った。その草稿はドイツの数学者の間で評判になり、1925年に出版された。ヒルベルトはこの論文を気に入り、ここからノイマンを秘蔵っ子のように可愛がり始めるようになったと言われる。1926年に連邦工業大学で化学の学士号とブダペスト大学の博士号を取得したノイマンは、ヒルベルトのいるゲッティンゲンに向かった。
当時、ドイツは物理学のメッカで、ゲッティンゲン大学では23歳の神童ハイゼンベルグが、1925年に原子の振る舞いを説明する行列力学(量子力学)を生み出したばかりだった。これにたいして、ウィーン出身のシュレジンガーは1926年に波動方程式で量子の振る舞いを定式化し、ハイゼンベルグの行列代数を批判した。当時、ヒルベルトはハイゼンベルグの説明が理解できず、助手を通してノイマンに解説を求めた。1926年にハイゼンベルグの講義を聴いた後、ノイマンは「ハイゼンベルグの行列もシュレジンガーの方程式も、無限次元のヒルベルト空間におけるベクトルを示している」というノートをまとめ、ヒルベルトに渡した。ノイマン23歳の時である。これをきっかけに、ノイマンはヒルベルトやその助手たちとともに量子力学の数学的表現の仕事に向かい、それが1932年の『量子力学の数学的基礎』として出版された。ノイマン29歳の作品である。量子力学が生まれた間もなく、ノイマンという天才的数学者によって、その科学に数学的基礎が与えられたのである。ノイマンは公理化を旗印とするヒルベルト数学の若き継承者として、老ヒルベルトをいたく喜ばせたと言われている。ノイマンにとってもこの著作は生涯を代表する作品であった。
当時、ゲッティンゲンには高校時代の一級上のヴィグナーがおり、1927年にヒルベルトの物理学助手に採用された。物理学者のヴィグナーに数学を解説した。ヴィグナーは量子理論に群理論や対称性理論を導入し、その業績でノーベル物理学賞を受賞(1963年)するが、明らかにヒルベルト空間の作用素(operator)を研究していたノイマンの助けなしに、これらのアイディアは発想できなかっただろう。また、遅れてゲッティンゲンにやってきたテラーはハイゼンベルグのもとで博士論文に取り組んだ。ベルリンではスィラードがアインシュタインを囲むセミナーを組織していた。いわゆる「ハンガリアン・サークル」の萌芽がゲッティンゲンとベルリンで形成されていた。
ノイマンはヒルベルト空間の研究に打ち込み、空間の次元を決める回転群をつきとめ、実数値の次元を持つ「連続幾何学」の公理を構築していった。しかし、抽象世界の深みに陥る危険性を直感したノイマンは、次第にヒルベルト数学の旗印を下ろし始める。そのノイマンに決定的な打撃を与えたのは、ゲーデルである。
1931年に、ゲーデルは、「いかなる公理系も、その体系内で無矛盾性を証明することはできない」とする不完全性定理を証明した。ノイマンはこの定理の意味を即座に理解した数少ない数学者の一人である。それもそのはず、ノイマンが追い求めた無矛盾な公理体系は不可能だと証明されたからである。これを契機に、ノイマンは純粋数学を離れ、物理学の応用分野の研究に力を注ぐようになった。
学際的な領域に多くの論文を残しているノイマンは、自らを数学者および数理物理学者と自称した。その第一の業績として常に上げていたのが「量子力学の数学的基礎」であり、いま一つが「擬エルゴード定理」の証明である。これは流体力学における気体の分子運動の定式化にかかわる数学定理である。
ある閉じた空間の中で、気体分子の運動はどのように記述されるだろうか。統計力学あるいは流体力学の問題である。ある初期状態から変化が生じて、ある定常的な状態へ収束するような運動をどのように記述することできるだろうか。力学的運動の時間平均が数学な位相平均に等しいこと、つまり時間平均がある確率的な平均に収束することをエルゴード性というが、エルゴード性の成立が証明されれば、いろいろな事象の解明への途が開ける。しかし、エルゴード性は強い命題なので、一般的な形式では証明できない。そこで一定の制約下でエルゴード定理を証明したのが、ノイマンの「擬エルゴード定理」の証明である。
この仕事から分かるように、ノイマンは物理学や化学における焦眉の問題を、現代数学で定式化し直すことで、それぞれの科学が直面している問題を正確に記述し、問題の解決を促進するという仕事をおこなっている。エルゴード性が成立すれば、運動の終着点が分かる。ミクロの実験室内の気体の分子運動からマクロの気象予測まで、同じ数学形式を利用できるのではないか。ノイマンはそのような推測をもって、エルゴード定理の取り組んだのである。
この手法は経済学にも適用された。ノイマンは1928年に「二人零和ゲーム」の理論を発表した。ゲームに関する数学理論も古い歴史をもつが、ノイマンの定式化はその綺麗な数学的定式化とともに、典型的なゲームの数理を明らかにした画期的な成果であった。この理論は後に、現代経済学のゲーム理論へと発展する。この論文を発展させた著作が、1944年に出版されたモルゲンシュタインとの共著『ゲーム理論と経済行動』である。この出版50周年を記念して、1994年のノーベル経済学賞委員会は戦後のゲーム理論の発展に貢献した3名を選んだ。そのうちの1名がハンガリー人のハルシャーニィ(ルーテル教会高校卒業)であり、もう一人がアカデミー賞受賞映画「ビューティフル・マインド」のモデルになったナッシュである。
ノイマンは二人のゲーム参加者がゼロサムゲームを演じるものと前提し、それぞれが利益を最大化し損失を最小化する行動をとる場合にどのような均衡が達成されるかを定式化した。ノイマンはミニマックス定理と鞍馬(saddle point)という概念を定式化し、不動点定理を適用した証明を与えた。非常に綺麗な双対性をもった数学形式をまとめた。この数学定式は、後に、経済学の分野で線形計画法や一般均衡論で利用されることになる。
ノイマンはこの綺麗な定理をもっと一般の経済モデルに使えないかと考えたらしい。そこで、やはりブダペスト出身で、イギリスで活躍した経済学者カルドアに教えを乞い、経済学の均衡論モデルの文献を紹介してもらって経済モデルの組み立てに入った。ちょうど、ウィーン大学の数学者メンガーのゼミナールでも、経済学者と数学者が集まって、ワルラスやカッセルの経済モデルの数学的解の存在をテーマにしていたことも、ノイマンが関心を向けた理由の一つであった。
ノイマンは線形不等式体系で全ての経済部門が均等に成長するモデルを作成し、そこに均衡解があることを証明した。このモデルは最初、1932年にプリンストン大学でおこなったレクチャーで発表され、論文の形式にしたものが1937年に発刊された。1937年の論文は1936年にウィーンのセミナーで発表する予定のものだったが、夫婦間の関係がまずくなったためにウィーンへの旅行をうち切り、レクチャーの代わりにパリのホテルで書き上げ郵送したものだった。このモデルでは、経済学の歴史上、初めて経済モデルを不等式体系で書き上げ、均衡証明にブラウアーの不動点定理を拡張したものを適用した。この拡張定理は、後にプリンストンに留学した角谷静夫がノイマンのアドヴァイスをえて、「角谷の不動点定理」にまとめることになるが、戦後の数理経済学はこのノイマンの数学的形式を習得するところから始まった。
このように、ノイマンは数学以外の科学分野で数学モデルになりそうな話題を見つけると、それを現代数学でモデル化するという離れ業を得意としていた。ふつう、数学者といえば、純粋数学の中に引きこもるが、ノイマンは他の科学分野に現代数学を適用することで、数学の有用性を認識させ、かつ問題を正確に定式化させることに力を注いだ。20世紀で唯一のルネッサンス型の天才なのである。こういう天才が短時間でやり遂げた仕事を、後世の凡才が寄って集って、ああでもないこうでもないと議論するのが常である。経済学でもノイマンが片手間で仕上げたモデルをめぐって、長い間、多くの数理経済学者が格闘してきた。しかし、ノイマン自身は、よほど面白いテーマになる場合は別だが、そうでなければ、モデル化を終えると、さっさと別のテーマに移っていった。だから、経済学者にしてみると、ノイマンを口にすることは諸刃の刃である。自らの能力が測られるからである。だから、現代の数理経済学者はノイマンを口にすることはほとんどない。
まだ30歳に満たないハンガリー人数学者は、ヨーロッパで天才数学者の名声を得ることになった。現在と違い、当時、数学や物理学などの科学の先端はアメリカではなく、ヨーロッパの大学にあった。ナチスの出現でヨーロッパ大陸が騒がしくなり、ユダヤ系科学者の居心地が悪くなってから、アメリカへのヨーロッパの頭脳流出が始まる。
プリンストン大学に高等研究所の設置が決まり、最初に招聘する5名の人事が決まったのは1933年初頭である。ニュージャージーの田舎にあるプリンストン大学がその名声を上げるために、特に数学と物理学の学問水準を引き上げる目的で、篤志家の資金を使って設立したのが高等研究所である。教育や行政管理の仕事に携わることなく、選ばれた学者に自由に研究する時間と報酬を与える機関である。プリンストン大学の数学教授ヴェブレンが中心になって人選を進め、ヨーロッパ大陸から物理学のアインシュタインと数学のワイル、これにヴェブレン自身と、彼の同僚で著名なアメリカ人数学者アレクサンダーを加えたリストが作成された。そして、このリストに、ヴェブレンがぞっこん惚れた若干29歳のハンガリー人、ノイマンが加えられた。ここから、ノイマンのアメリカでの本格的な研究が始まる。
プリンストン時代の前半の1930年代半ばから終わりにかけて、ノイマンに迷いがあったように見える。ヨーロッパではサロンから様々な人間関係が発展し、各国のトップ頭脳が集まる各種のセミナーから新しい研究の潮流が生まれる。しかし、アメリカにはそのようなサロンやセミナーの場がない。アインシュタインやワイルのように、すでに峠を越した学者ならともかく、これから大きな仕事をしようというノイマンにとって、プリンストンの研究所は最適な場だったとは言い難い。もっとも、破格の俸給があったから、自宅で様々な研究者を集めたサロン・パーティを頻繁に開き、ヨーロッパの生活を取り戻そうとしていたようだ。オブリゲーションがなかったから、欧州への旅行は自由だった。
1930年にブダペストの幼なじみのクヴェシュ・マリエッタと結婚し。娘マリナ(後にGM主席エコノミスト、ニクソン大統領経済顧問)を授かったが、1937年に離婚した。その年に、ノイマンはアメリカの市民権を取得した。プリンストンの高等研究所の最初の時期は、夫婦関係が崩れていく時期である。婦人はノイマン家のパーティに出入りしていた研究者と再婚し、ノイマンはやはり幼なじみで、亭主との離婚話を進めていたダン・クラーラと再婚すべくブダペストに戻り、1938年秋に一緒にアメリカに戻った。後に、ダンはコンピュータのプログラム・コードの開発でノイマンを助けることになる。これがノイマンの最後のハンガリー訪問になった。
離婚から再婚の間、ノイマンは何を思ったのか、陸軍の予備士官に応募した。採用試験の最後の軍規試験で不採用になったのだが、ノイマンは砲弾の爆発の研究をしたいと考えたようだ。弾道や爆発の衝撃波は数学的な解析が必要とされる分野だったし、ナチス・ドイツとの戦いで何かの貢献ができると考えたのだろう。ハンガリー人で、アーバーディーンの弾道研究所を仕切っていたカルマンが身近にいたから、不自然な話ではなかった。エルゴード性という観点からみると、気体運動と衝撃波の研究は本質的に異なっていない。ヒルベルト空間の構造解析の仕事やゲーム理論の著作の仕事を続けながら、ノイマンは衝撃波の解析の仕事に取り組むようになった。
1942年にノイマンはアメリカ海軍からの招聘を受け、常勤の研究者として本格的に爆破の研究を行うようになった。衝撃波の研究には連続的に変化する衝撃面、それも線形ではなく非線形の衝撃面の状態を記述する方程式が必要になるだけでなく、その方程式を数値的に解くという作業が必要になる。当時、こうした研究はおこなわれておらず、まして数値計算など不可能なことであった。アメリカ全土が戦時体制に入ったこの時期プリンストン高等研究所もその体制に巻き込まれていたから、ノイマンが常勤で海軍の仕事をすることに何の不都合もなかった。
アメリカの原爆開発は1943年に始まった。このマンハッタン計画の責任者がグローヴス将軍で、オッペンハイマーをまとめ役にして、全米からトップクラスの物理学者と数学者が機密地帯であるロスアラモスの研究所に集められた。この計画に携わったハンガリー人は、ノイマンのほかに、物理学者のヴィグナー、テラー、スィラードである。ここでのノイマンの役割は各種の数学的計算の効率的実行であり、爆縮型の原爆の設計であった。卓上計算機しかなかった時代である。数値計算を効率的にするために、ノイマンは問題を正確に定式化し、かつそこから数値計算可能な便法を見つける必要があった。ポーランドが生んだ天才数学者ウラムはノイマンの助手として、この仕事を手伝っていた。
原爆製造で最後に問題になるのは、プルトニウムの点火である。臨海点に達していないプルトニウムを爆薬で包んで、目標の高さで爆薬に点火し、この爆発の衝撃がプルトニウムを圧縮して臨界量に転化させる。この一連のプロセスが正確に制御できなければ、原爆として使えない。その数値計算の仕事をおこなったのがノイマンとそのグループであった。
1945年に原爆が完成し、ロスアラモスで原爆投下の標的を決める会議が開かれた。1945年5月10日のことである。最初の目標リストにあがっていたのは、皇居、京都、広島、横浜、新潟、小倉である。ノイマンは皇居投下に反対したが、京都投下に反対しなかったと言われる。しかし、これは別の強い反対意見でリストから外された。最終的に、広島、横浜、新潟、小倉が残った。そこから横浜と新潟が外され、広島、小倉、長崎の順で2発の原爆が落とされることになった。曇空で投下地点が確認できなかった小倉から予備候補の長崎に爆撃機が向かった。
ロスアラモスの厄介者扱いされていたスィラードは、ナチス・ドイツ敗北の後、原爆投下に反対するため、アインシュタインを焚きつけて、ルーズベルト大統領に原爆投下反対の手紙を書くようにし向けた。スィラードとヴィグナーは投下反対派で、ノイマンとテラーは賛成派だった。それぞれ、生まれた家庭環境、ハンガリー社会での経験、全体主義体験の違いが、ハンガリーの科学者を二つのグループに分けることになった。
ノイマンが爆縮計算をおこなっていた1944年、人類最初の電子計算機ENIACが開発された。爆縮や衝撃波の計算には、非線型の偏微分方程式を解かなければならない。手動の卓上計算機では人の一生ほどの時間が必要になる。ノイマンは高性能の出現を待っていた。
17,000本の真空管を使った人類最初の電子式計算機は、ハードが信頼できないだけでなく、ソフトもないに等しいものだった。真空管1本が切れただけで、もう計算が成り立たなくなる。プログラムが内蔵されていないから、違った計算をやる度に、スイッチと配線を変えてやる必要があった。実際に使い物になるためには、この二つの面で大幅な改良を加える必要があった。
ノイマンは「コンピュータの父」と呼ばれるが、それはコンピュータのハードを設計したからではない。ENIACは一時プリンストンの研究所で数学助手をしていたゴールドスタインが陸軍の中尉として始めたプロジェクトで、技術者のエッカートと数学教師のモークリーが中心になって製作したものである。エッカートとモークリーはこれで特許をとり商売できると考えていたが、ゴールドスタインはどうしたらENIACを使い物になる計算機にできるかを考え、ノイマンの助言を求めた。
二号機となるEDVACの開発にあたって、ゴールドスタインはノイマンに論理アーキテクチャーについての助言を求めた。この頃、ノイマンはロスアラモスの原爆投下をめぐる最後の仕事に忙殺されていたが、仕事の合間を見て三月頃までに大方の提言を仕上げていた。その文書が、First Draft of a Report on the EDVAC と題された101頁の謄写刷りの印刷物で、正式には1945年6月30日にゴールドスタインに届けられた。ゴールドスタインはこの文書をすぐに増刷りし、ヨーロッパの開発研究者たちに配布した。
電子計算機の論理設計を明快に解説したノイマンのFirst Draftは、以後コンピュータの論理設計の手本(バイブル)となった。ハードとは独立したソフトフェアという概念を確立したのである。このドラフトにはノイマンの名前だけが記されていたので、ノイマンの名声だけが高まったことに、製造開発者のエッカートとモークリーは不満で、これが後のコンピュータ開発の功名争いの始まりになる。「ノイマンは電子回路をただ別の言葉で書いただけで、設計の功績はわれわれにある」というのが、彼らの主張である。特許をとって巨額の富を夢見ていた彼らは、名声を独り占めにしたノイマンに激しく嫉妬したが、ノイマン自身は金儲けのことはまったく念頭になく、計算機を使い物にするための提言をまとめただけのつもりだった。だから、First Draftという表題が使われていた。
このFirst Draft配布の後、多くの大学からノイマンに声がかかった。高等研究所は思索の場所であっても、コンピュータを開発する場ではなかったからである。それを見越して、多くの大学がこれを機会にノイマンを招聘する計画を立てた。しかし、高等研究所がノイマンのコンピュータ開発費用をもつことになり、高等研究所でのコンピュータ開発が始まった。しかし、実際のところ、高等研究所のハードの開発は成功したとはいえず、その間に、別の大学や研究所の開発が進んだ。優秀な技術者を確保できなかったし、高等研究所そのものがこのような実験的研究を支える体制をもたなかったからである。しかし、ノイマンの研究グループは論理アーキテクチャーの研究・提言でこの初期の開発時期をリードし、後世のコンピュータ開発の基礎を築いた。現在のコンピュータ設計が「ノイマン型」と称される所以である。
ノイマンにとって、コンピュータ開発が目的というより、そこから獲得される計算能力が目的だった。第二次世界大戦後、原爆開発に参加した科学者の多くは、それぞれ大学や研究機関に散らばっていったが、ノイマンとテラーは原爆の性能向上と水爆開発のプロジェクトに邁進していった。ノイマンは原爆実験に立ち会い、そこから得られる数値の解析をおこなっていた。ビキニ環礁の実験にも参加した。この戦後の原爆実験への参加が、癌発生の原因とみられている。
戦後の一時の平和が崩れ、米ソ冷戦時代に入ると、ノイマンは軍関係の仕事に忙殺されることになった。常に軍の仕事を抱えながら、他方で民間の仕事や大学でのレクチャーなどをこなしていた。ノイマンは衝撃波の研究から得られた成果が、気象学に役立てられるのではないかと考えていた。他方、コンピュータの進歩から、「細胞オートマン」のような自己複製しながら発展する機械を想像していた。治療入院中も、コンピュータと脳との関連を考えながら、講演原稿を用意していた。分子細胞学、脳の解明や遺伝子の解明が進むのはノイマンの死後である。
1957年2月8日。ノイマンは陸軍病院で死去した。53歳の誕生日を迎えて間もなくだった。多くのアイディアを温めたまま、多くの人にその才能を惜しまれながら、早すぎる旅立ちとなった。
ノイマンの父親マックスは銀行家として成功したユダヤ人で、ハンガリーの社会発展に貢献した実業家として、1913年に貴族の称号が授与され、氏名の前に貴族の証であるハンガリーの町の名前を付けることが許された。マックスが選んだのはマルギッタ(Margitta)という町。ここから、小文字でmargittaiと付け、ヤーノシュはmargittai Neumann Jánosとなった。ドイツ語で署名するときには、ドイツ風にvon Johann Neumannを使った。母方の家も裕福な家庭で、現在のバイチ=ジリンスキー通り62番地の4階建ての角の建物がその生家である。1階は母方の家が経営していた会社の売り場で、2階から4階までが親戚と分けて2家族が住む住居だった。ヤーノシュが生まれた頃には、ノイマン一家は18部屋ある4階のフロアーをすべて使ったいた。当時、この通りはVác(ヴァーツ)に向かうという意味でVáci útと呼ばれていた。現在は西駅の外側からが、Váci út通りになる。
当時のギムナジウムは8年制で、4年の小学校を終えてから入学する。ノイマンが通った通称ルーテル教会高校のほか、ブダペストにはエリート校として、レアル高校、ミンタ高校がエリート御三家であった。ヴィグナーはルーテル教会高校だが、スィラードはレアル高校、テラーはミンタ高校の出身である。オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立を契機に、ハンガリーは経済力を高めて国力を上げることを第一目標とし、中等教育、特にギムナジウムのエリート教育に力を注いだ。その模範校がここに上げた三校である。このエリート校の特徴は、ラテン語、ギリシア語から数学、物理学まで、幅広い教養を身につけさせるだけでなく、専門教員には大学教授をも配置して、最先端の知識を身につけさせたところにある。
当時の裕福な家庭では子供に家庭教師を付けるのがふつうで、ノイマンも幼少の時からいくつかの外国語の個人教授を受けていた。家には蔵書があり、ノイマンは世界史は文学を読みあさり、後年になっても夢中になった小説や歴史事件の解説部分を、一語違わず暗唱できたという。また、家には実業家たちや政治家たちが集まり、夕食時や歓談時には一緒に議論する輪に入れられた。幼少の時から、大人の世界に入っていた。ここが、他の数学者と違うところで、ノイマンの関心が純粋数学の枠の収まらず、いろいろな科学に関心をもった背景には、こうした家庭環境がある。
ギムナジウム時代には素朴な関心や興味を科学的な知識にまで引き上げてくれる優秀な教師がいた。日本と違い、ハンガリーでは教師やコーチ(スポーツの場合)は、成功した本人と並んで社会的な栄誉を受ける。どんなに能力がある者でも、優れた指導者がいないと、その能力を開花させることはできないからだ。当時のブダペストのエリート・ギムナジウムは優れた教員を擁しており、その教育水準と児童の能力は全世界でもトップ水準にあっただろう。
日本でも問題になっている論理力について、当時のハンガリーでは文法が厳密なラテン語は必修科目で、ここでの訓練が論理力の形成に役立っていたと言われる。残念ながら、この伝統は第二次世界大戦後、消滅した。
ノイマンの反社会主義的思考は、1919年のハンガリー社会主義政府樹立後の初期体験から出発する。政府樹立に伴い、労働者の一群がノイマン家の住居を占領するという事態に見舞われた。その後、スターリンのソ連にかんするハンガリー人の体験小説(ケストラーの『真昼の暗黒』)やスターリンのソ連への短期の旅行を通して、ソ連社会主義への幻想を抱くことはなかった。ノイマンはナチス・ドイツもスターリンのソ連も、同種の体制だと見ていた。こうした思考をもっていたにもかかわらず、友人たちと政治議論をすることは好まず、このテーマで友人関係を気まずくするのを嫌っていたようだ。
すでに社会は一握りのエリートが支配する時代ではなくなった。しかし、依然として、人類は一握りの優秀な人々が発見・発明したものを、食いつぶしながら生きている。これからはもっと社会全体の知性・知的水準を上げることが課題になる。ノイマンの辿った途は参考にならなくても、ノイマンが受けた学校教育や家庭教育には、学ぶべきものがあるような気がする。
(パプリカ通信2003年12月号掲載)