トコロかわれば・・・

脂(zsír)

鷲尾 亜子


 数年前のこと。当時の同僚とハンガリー定食の店に昼食に行った。頼んだ豚肉(当然、皿をはみ出さんばかりの大きさ)の隣りに、分厚いパイナップルの輪切りを焼いたようなものがついていた。

「はて、これはハワイアンなんとか、、というものか。メニューにそんなこと、書いてあったかなあ・・・」と思いながら、3センチ程度ナイフで切ってパクリ。モグモグ。「うわうわ〜!!」

・・・それはパイナップルではなく、豚脂の塊だった。

 同僚の方は、何食わぬ顔をしてパクパク食べている。今月は、これをなくしてはハンガリー人の食生活を語れないだろう、という脂の話。


パプリカ・玉ねぎ・そして脂

 ハンガリー料理で欠かせないものはなんだ、と問われれば、誰もがまず「パプリカ」と答えるだろう。しかし、それ以外にも大事な構成要素がある。玉ねぎと動物脂である。

 脂はハンガリー語でzsír(ジール)。「ジ」と濁音になっているところが、いかにもねとねと、脂たっぷり、というかんじである。

 最も頻繁に使われるのは豚脂(ラード)だ。日本人が炒め物でサラダ油を使うように、ハンガリー人はラードを使う。そして沢山使う。躊躇せず使う。テフロン加工のフライパンで、油を少な目にして調理しましょう、などと言っていては、ハンガリー料理の神髄には一生迫ることができない。

 美味しいハンガリー家庭料理を食べた時の、あのコクのある味わい、ボディーブローのように後からきいてくるあの重たさ・・それには、ラードが重要な役割を果たしている。

 一昔前までは、油ばかりのベーコン zsírszalonna(ジール サロンナ)を調達してきて、家庭で揚げてラードを取るのも普通のことだったそうだ。その時にできるカリカリの肉皮töpörtyũ(トゥプルテュー)は別途塩など振って食べるのだが、これもハンガリー人の好物。そして、どの家庭にもラード保存用のポットzsírosbödör(ジーロシュ ブドゥル)が置いてあった。

 イタリア料理やフランス料理でも珍重されているガチョウ脂(liba zsír)もハンガリーでは使われるが、こちらの方はお値段がラードよりずいぶん高いので、普段はラードという家庭が多い。


脂パン

 しかし何といっても、ハンガリーらしいのはzsíroskenyér(ジーロシュ ケニェール)だろう。これは、その名の通り、パンにラードを塗って、玉ねぎの薄切りや塩、パプリカを少々振りかけたものだ。こちらも一番高級なのはガチョウ脂を使ったものだが、たいていはラードである。最近はマーガリンを塗ったものもよく見かける。

 これらは居酒屋のおつまみとして出てきたり、学生寮でのパーティーで振舞われたりする。酒の友として、脂パンが欠かせないのは、胃壁に防護幕を作るため、と言われる。しかし、何よりサンドイッチを作るより手軽だし、安あがりである。

 ハンガリー人の家庭に招かれれば、最近でこそ洒落たものが出されることが多いが、依然として「伝統的」な脂パンが無造作に皿に並べられて出されることもある。見た目に洗練されているとは言いがたいが、それも素朴で家庭的でいい。

 そういえば、以前通っていたテニスコートでもなぜかいつも用意されていた。日本人友人は、乳児保育園でも、また病院でも「おやつ」として出てきたのでびっくりしたそうだ。ハンガリー人友人(五十代)は、子供の頃から朝のエネルギー補給に、また冬は冷え性対策に毎日ラードを大さじ二杯分くらいはパンにつけて食べるという。(それでも冬は靴下を二枚履いているというから、「?」であるが、きっと脂の摂取量が十分でないか、そうでないとしたら靴下が粗悪品なのだろう。)

 脂パン変形版として、砂糖を振り掛けるものもある。子供のお誕生会で出したら、好評を博した、と聞いたことがある。確かにパンにバターをつけて、フライパンで焼いて砂糖とシナモンを振り掛けるシナモンブレッドは美味しいから、それほど気味悪がらなくてもいいかもしれない。


健康の敵

 もう一つ、ハンガリーらしいのはszalonnasütés(サロンナ シュテーシュ)、豚の脂身の塊のバーベキュー。火であぶって、ぽたぽたと下にたれる油をパンにつけながらいただく。日本人の私が、このバーベキューに参加した結果、酒の前の胃壁の保護になるどころか胃痛でのた打ち回ったことは、以前このコラムで触れさせていただいたところである。

 だがやはり、このハンガリー料理の必需品、不健康であることにかわりはない。街でよく見かける脂肪の腹巻きをした中高年の人々には、きっと何十年にもわたってラードが蓄積されているのだろう。CTスキャンにかけたら、きっとベーコンみたいになっているはずだ。

 世界保健機関(WHO)がまとめたハンガリーに関する報告書でも、食生活での動物脂の採り過ぎが指摘されている。中でも興味を惹かれたのは、動物脂の消費量についての1970年〜97年にかけて他国と比較したものである。ハンガリーは断トツで、国民一人あたりの年間消費量は、80年後半の約35キロを境に減少傾向にあるが、この30年間は25〜35キロの間である。つまり、単純な計算でも月に最低2キロ以上の摂取量になる。しかもこれは乳幼児も含む国民一人当たりである。

 一方「北欧州」平均は、1970年代には20キロ台前半だったが、徐々に減少して90年代後半は10キロ台後半になっている。「南欧州」平均は、さすがにオリーブ油が主流であるため、動物油の消費は10キロ以下である。(北欧州はノルウェー、デンマーク、スウェーデン、フィンランド、アイスランド。南欧州はギリシャ、イタリア、ポルトガル、スペイン。WHO/Highlights on Health in Hungary, Dec 2000)

 毎年死亡したハンガリー人の死因をまとめている中央統計局によると、アルコール摂取、喫煙に関連・起因するものが全死亡者の27%にもなるというが、脂肪分やカロリー摂取量の多さがさらに拍車をかけていると分析している。ちなみに、2002年に死亡した132,833人のうち、死因のトップは心疾患で38,668人。二位は癌で、33,537人、第三位は脳血管疾患で18,510人。四位は動脈硬化で7,407人だった。


健康志向の波

 とはいうものの、最近は靴やズボンの形まで、どの国でも流行が同じような時代だから、ハンガリーでも健康を志向する人が増加している。自然食品の店ができたり、ヘルスだのフィットネスだのという雑誌で、正しい運動の仕方と正しい食事の取り方が伝授されたりするのと同時に、家庭ではラードの出番が少なくなってきている。

 前述のWHOの報告書も、都会に住み、教育レベルが高い層を中心に食生活の改善が見られるとしている。また、ハンガリーが貿易国際機構WTO(当時はGATT)に加盟したことにより、市場が開放され、流通の改善もあいまって、市場に出回る野菜、果物の種類やりょうが増えたことも大きく貢献している。

 普段の食事はハンガリー料理でも植物油が中心、またはベーコンは使っても風味づけくらいにしておく、という家庭が増えてきている。依然としてラード保存用ポットを待っている家庭と、植物油だけを常備している家庭の数を較べたら、ブダペスト市内なら後者の方が圧倒的に多いだろう。


ハンガリアナイズド

 一方自分はどうか、というと、あいかわらず豚脂のパイナップル風ステーキには躊躇して手が出せないでいるが、実は最近、フォアグラ料理に使ったガチョウ脂はパンにつけて食べている。ニンニクやスパイスがしみ込んだ脂の美味しさに目覚めてしまった。

 もしかして十年後には、ハンガリー人に負けないほど脂パンを食べて、来客があれば振舞っているかもしれない。


(パプリカ通信2004年3月号掲載)