「汎ヨーロッパ ピクニック」計画

糸見 偲


 第二次世界大戦の戦勝国はヨーロッパを二分割し た。西側の俗に云う資本主義国と、ソ連の権力下に 組み込まれた東欧諸国との間には「鉄のカーテン」 が敷かれ、それを挟んで完全武装した軍隊とロケッ トが相互に対峙していた。軍事的に敵対する二つの 陣営は四〇年以上に渡って 大陸の人々を相互に隔離 させ、敵対させる事になった。

 東西に引き裂かれたドイツ、悪名高きベルリンの 壁、何千キロにも渡って敷かれた鉄条網と地雷原は 、 たんにヨーロッパの恥辱であっただけではなく、 第三次世界大戦の危機を暗示していた。

 一九八〇年代初頭、ヨーロッパには広島を破壊し た百万倍以上もの原子爆弾が配置されていたと云 う。人類の将来と存続を危惧する人々は、これらの ロケットが発射されればヨーロッパのみならず、地 球上の全ての生命を滅ぼしかねない事を警告してい た。


 八〇年代後半、東欧には目に見えない政変の兆し が脈打っていた。そんな中、ハンガリーは八八年に 難民条約に加盟し、これを契機に八九年四月、オー ストリアとの国境に張り巡らされていた鉄条網が切 り離された。そして其処に自由の光を見いだした旧 東ドイツの人々が夏休みを利用して続々と集まり始 めた。そのような状況を見ていたハンガリーの有志 達が彼等を何とか救おうと大それた計画をたてた。 それが「汎ヨーロッパピクニック」計画である。

 八九年八月一九日  ショプロン市郊外のハンガり ー・オーストリア国境で「ピクニック」と名付けら れた大集会が始まった。午後三時、国境が開いた。 そして集まった東ドイツの数百人が三時間だけと云 う約束で開けられた国境に向かって 走り出し、次々 と突破していった。国境には銃を構えた警備隊がい たが事前に知らされていたのか、流れに圧倒された のか発砲出来ないでいた。

 九月十一日 ハンガリー政府は正式に国境開放を決 定。同時に 何万人もの東ドイツの人々が西ドイツを 目指して国境を渡っていった。この「ピクニック」 事件をきっかけに、ハンガリー経由で西側に脱出す る東ドイツ市民が急増し、およそ三ヶ月後、あれよ あれよと云う間にベルリンの壁が崩壊してしまった。


 日本では冷戦の終結は「壁」の崩壊からだと思い 込まれているようだが 実はハンガリーの小さな国境 の町での「ピクニック」計画がその引き金、導火線 だったのである。当時、私はブダペストに住み、九 〇年に国会議員に選ばれた夫と共にハンガリーの民 主化を見守ってきた。直接的には「汎ヨーロッパピ クニック」計画には携わらなかったものの計画の一 部は私達の家で練られた。事件の一部始終を見聞し て体が震えるような思いだったのを今でも覚えてい る。


 一九九五年の秋、私は「ピクニック」の現場に立 っていた。そこには、私の背丈もあるような草が生 えていて寂しげに風が吹いている。 何も無い、ただ 遠くに朽ち果てた見張り台があるのみ。

「本当にここで世界中を騒がせた事件があったのだ ろうか。」

 目を閉じると当時テレビで見た映像が次々と出て 来る。喜びの余り地面にひれ伏している男性。泣き ながら国境を突破してくる親子連れ。倒れそうにな った女性を抱きかかえる国境警備隊員。胸がいっぱ いになってくる。

「駄目だ、駄目だ、このままにしたら!ここに公園 を作ろう。」ヨーロッパ統一に繋げたこの素晴らし い歴史の事実を風化させてはいけないと思った。


 翌年、私の公園作りの話を聞いて秋田から桜の苗 木が四〇本届いた。せっかく桜を植えたのに水が無 いと云ったら岐阜の美濃加茂市から寄付が届いた。 さっそく井戸を掘り、水飲み場も作った。ハンガリ ー政府も日本人がこんなに一生懸命になっているの を見て黙っていられなくなりガタガタの道を舗装し てくれた。


 そして、一九九七年の夏、八月一九日を記念して ベートーベンの第九を演奏する事も決めた。場所は 「ピクニック」計画が行われた近くの洞窟。昔は、 石切り場として栄え、ここの大きな石はヨーロッパ 各国へ積み出された。その洞窟に舞台を作ってコン サートをしたらと提案してくれたのは夫だった。彼 は以前、此の場所を使ってブダペスト動乱の映画を 撮影した。

 見に行くと私が望んでいるコンサートの雰囲気に ぴったり。それに音響も素晴らしい。指揮者の守山 さんも感激している。

 かつて、何回かオペラが上演されたらしく一応舞 台も有る。照明が貧弱なのでこれを何とかしなくち ゃ……。


 ブダペストに戻ると直ぐ、最近ハンガリーに工場 を造った大手企業にお願いした。

「新製品じゃなくて結構です。使用済みのものでも 良いです。」日本製品なら古い物でも現在ハンガリ ーで使われている物より良いと思った。が、暫くし て届いた答えは「ノー」。

「古いものを出して故障した場合、我が社のイメー ジダウンになる。」と云うことだった。図面を書い て、欲しい製品名をあげて日本でも探して貰った が、何処からも助け舟は出なかった。

「仕方無い、暗い照明のままでやろう。ベートーベ ンは目で見るんじゃなくて、耳で聞くんだから。」

 それからは知人、友人のつてを頼って色んな所に 支援を頼んだ。一番の大口はハンガリーテレビ。放 映権を渡すと言うことで資金が出た。これでオーケ ストラやソリストの分が出る。バリトンの三原さ ん、アルトのマリア・クナウエールは次のコンサー トにと出演料を寄付してくれた。ありがたかった。


 当日、八〇〇の席は満員。二〇〇人近いコーラス は半分が日本人で、後はオーストリーから、ポーラ ンド か ら 、 地 元 の コ ー ラ ス グ ル ー プ か ら で な っ て いた。ベートーベンの第九の四楽章が始まって三原 さんの低音が響き渡った時、私は何か云いようのな い感動で身が震えた。 第九は何回も聞いているがあの時の第九は特別だった。


 コンサートが無事に終わってホテルに戻ると、日 本からの参加者全員で打ち上げパーテイをした。そ の席上で、

「ありがとう」

「これからも頑張って下さい」と云う言葉と共に一 人一人から茶封筒を渡された。その中にはそれぞれ の気持ちでお金が入っていた。日本円だったり、シ リングだったりフォリントだったりと色んな種類の お金だった。それを集計すると三七万フォリントに なった。胸が張り裂けるくらい嬉しかった。私はそ の資金を元にして基金を作った。非営利、非政治の 民間基金。役員には「ピクニ ッ ク 」 を 計 画 し 実 行 に 移 し た 人 達 に な っ て も ら い 、「汎ヨーロッパピ クニック、 '89  基金」と命名した。


 一九九九年、基金の名のもとでヨーロッパピクニ ック計画の十周年記念コンサートを行うことが出来 た。公園の方も記念樹が増え平和の鐘も出来、暫く 行かないと、いつの間にか色んな記念碑が建ってい て驚いてしまう。「国境突破」という本も作った。 そして今年は十五周年。又日本から沢山の人が集ま ってくれる。お金のない小さな組織だけど役員たち が、知人が、友人が必死で私を助けて走り回ってく れている。


 二〇〇四年八月一九日の夜、またあの自由と平和 の人間への讃歌が聞ける。そう思うと、もう今から 私は胸の高鳴りを覚える。


(パプリカ通信2004年7・8月合併号掲載)