踊り人生待ったなし 第0回

自己紹介をかねて


 パプリカ通信読者のみなさま、はじめまして。鈴木仁と申します。次号からシリーズものを書かせていただくことになりました。今号では連載への準備として、日本経済新聞の文化面に掲載された文章をパプリカ通信読者のみなさまにお届けします。


ハンガリー舞踊の魂継ぐ

鈴木 仁

日本経済新聞 2004年5月11日付け

◇マジャール人とともに、本場で学ぶ◇

 打楽器のごとく、ヒザやブーツを手でたたきながらステップを踏む。リズムを刻むような軽い夕ッチではなく、親の敵のごとくひっぱたくので結構痛い。一方で女性は輪になってクルクルと回ったり男性と組んで踊ったり。ハンガリーの民族舞踊、つまりマジャール人の踊りなのだが、その代表的な舞踊団「チラグセム」に一人、日本人が交じっている。それが私である。

 学生時代から夢中

 私の師匠であり舞踊団の団長でもあるティマール・シャーンドル氏は「ハンガリーと日本は昔、別れた兄弟のようなものだ」とおっしゃった。

 確かにマジャール人の起源は東方といわれている。ハンガリー語は日本と同じウラル・アルタイ語族に属し、文法は多くの欧米の言語と異なっている。名前も姓・名の順で記す。赤ん坊のころに蒙古斑が出るという日本人と共通の特徴もある。学生時代かち民族舞踊にのめり込んでいるうちにこの舞踊団にたどり着いた私だが、日本とハンガリーとのこうした縁も入団に何かしら作用しているのかもしれない。

 高校時代までは将棋を指していた。県大会の団体戦で優勝する程度の実力はあったのだが、京都大理学部に進んでから机上の勉強より体を動かす方が性に合っていると気づき、中・東欧を中心に各地の踊りを学んで踊る民族舞踊研究会というサークルに入った。フォークダンスと言うと分かりやすいだろう。

 しかし次第に限界も感じた。「フォークダンス」は日本で娯楽として受け入れられている。楽しみで踊るのが悪いとは思わないが、私は精神面も含めた本場の「民族舞踊」を知りたかった。それには現地に行くしかないと思った。

 一時休学して金をため、行き先をブルガリアと想定して言葉の勉強もした。ところが日本に踊りを教えに来ていたティマール氏に誘われ、二〇〇〇年にハンガリーに渡ることになった。

 中・東欧は他の地域に比べ村々の踊りが長く残ってきたといわれる。特にハンガリーでは一世代前まで踊りが村の主要な娯楽だった。踊りは村ごとに少しずつ違い、男たちは女たちの気を引くために格好良いステップを次々と編み出した。皆が競い合い発展させてきたから、水準の高い踊りが自然な形で保たれた。


  「チラグセム」で踊る筆者(中央左)

 ステップ、即興性高く

 村人が自由に作り上げてきたから即興性が高い。私たちが舞台で踊る時も、どう移動するかは決まっているがステップは個人に任されている部分が多い。私もいくつ新しいステップを踏んだことか。男性は黒いチョッキに黒いズボン、女性はエプロンの付いたひざ下丈のスカート姿だ。

 第二次大戦後には、こうした村の踊りを映像などで記録する活動が始まる。ティマール氏はその一人で、共産党政権下では政府ににらまれながらも自らの民族の文化を研究した。そんな蓄積を生かし、民族の踊りを子供のうちから体に染み込ませたいと十一年前に始めたのがチラグセムだ。だから団員は皆、小さいころに踊り始めている。

 ほとんどの民族に民族舞踊はある。けれど多くの場合、日本の盆踊りと日本舞踊などとの間に隔たりがあるように、昔から村々で踊られてきた「民俗」舞踊と舞台用に発達した「民族」舞踊は違う。急速に消えつつある「民俗」舞踊を意識していることがチラグセムの特徴だ。そうした舞踊団は欧州でも珍しい。

 歴史・文化を勉強

 民族舞踊を踊るには技術だけではなく、歴史や文化も学ばなければならない。ハンガリーヘ渡った後、まず私は一年間語学学校に通い、次の一年で文学や歴史、地理、民族学などを浴びるように勉強した。民族舞踊は文化の一つの断面。ステップの華麗さなどより体からにじみ出る「魂」のようなものが重要なのだ。

 今ではハンガリーでも民族舞踊を踊れない人は多い。私が踊る姿を見て、日本人があそこまでやるのなら自分たちも、と思ってもらえれば最高である。私にとってはこれが、これまで教わったことの還元なのだ。

 舞踊団はこの夏来日し、七月四日から八月七日まで全国二十一カ所の会場で踊る。私がどこまでマジャール人の文化に迫れているか、とくとご覧あれ。(すずき・じん=民族舞踊家)


日本経済新聞社様のご承認をいただいて掲載。転載禁止


(パプリカ通信2004年7・8月合併号掲載)