モルドヴァのチャーンゴー人

谷崎 聖子


「神様の背の向こうに、連れて行ってあげるよ。」 そう誘われて、私の胸は躍った。以前から、写真家の ゲルゲイが撮り続けてきたモルドヴァのチャーンゴー 人たち。彼らは色彩豊かな民俗衣装に身をまとい、古 いしきたりを重んじる敬虔なカトリック信者である。 彼の写真から受けた印象は、保守的で神聖な感じであ った。そのため多少の抵抗も感じたが、湧き上がる好 奇心には勝てず、すぐに承諾した。

 イースター。キリスト教信者にとっては、クリスマ スと並ぶ二大行事である。二〇〇〇年の四月のその時 期に出発が決まった。ブダペストから車でルーマニア に入り、国境の町からは電車でカルパチア山脈を越 え、モルドヴァ地方の都市バカウにつく頃には、丸一 日かかった。目指す村々は、バカウの近郊に点在して いる。このあたりの風景は、なだらかな山並みが続く 平原で、チャーンゴーたちが、一五世紀以前に住んで いたといわれるトランシルヴァニア地方とは全く異と している。なぜならそこは「森の彼方」といわれるよ うに起伏に富んだ景観であるからだ。どちらかという と、「大平原」で有名なハンガリーのアルフルド地方 に似ている。そこに「セレト(愛)」という名の河が 流れている。

 小さな停留所を降り、モルドヴァの地を踏みしめ る。しばらく行くと、後方からガタガタと馬車が近づ いてくる。畑仕事の帰りであろうか、荷台には鍬や鋤 のようなものがのっている。ゲルゲイと馬車の女性が 言葉を交わしている。どうやら後ろに乗せてくれるら しい。「これがチャーンゴーのタクシーだよ。」と彼 はウインクした。お尻は少し痛むけれど、荷台からの 眺めは素晴らしく、村を真っ白に彩るりんごや桃の木 々に、春の訪れを感じた。ふと、桃源郷という言葉が 頭に浮かんだ。

 橋のたもとのところで馬車を降りる。村人達に礼を 言い、彼の知り合いの家へと向かった。インターホン はないので、門の外から叫ぶしかない。迎えてくれた のは澄んだ青い瞳をした女性。部屋へ通されると、チ ャーンゴーの風習に従って、パーリンカが出される。 強い飲み物に慣れない私たちは、薬を服用していると 偽って、丁重に断らなければならなかった。

 やがて家の主人が帰ると、酒とともに世間話に花が 咲く。民俗衣装に興味があるという私のために、二人 が棚の中から村の芸術品を次々と、手品のように広げ てくれた。チャーンゴーの女性の衣装は、すその長い ブラウスと巻きスカート、それを結ぶ帯からなる。最 も美しいのはそでの刺繍で、中には何百年ものの文様 が刻まれているものもある。赤や黒を主とした幾何学 模様の世界に、なにか呪術的なものが匂ってくるよう だ。何百年という年月と、何世代という人々の手によ って創られた伝統の美しさである。村を歩いてみると、 民俗衣装を着ているのは、中年女性や老女である。若 い女性達は、世界中どこにでも見られる洋服に姿を変 えてしまった。一〇年前まではこの村で、皆が民俗衣 装を着て歩いていたと友人は言う。

 かの有名なチャウセスク政権時代では、この辺りを よそ者が歩くことは禁じられていた。そのため、彼は 二回も牢屋に入れられ、名前をまでかえなければなら なかった。それでも、この熱心な写真家は二〇年以上 かけてモルドヴァに通いつづけたという。

 なぜこんなにもカルパチア山脈の外側の少数民族が 多くの民俗学者や写真家を惹きつけるかというと、 三、四〇〇年ほど閉ざされた環境にいたために、ハン ガリー語とは異なった形で言語が発達し(それをチャ ーンゴー語と呼ぶ人もいる)、とりわけフォークロア が盛んになったからであろう。

 ここ十年ほどで、チャーンゴーの文化はハンガリー で幅広く紹介され、独特な民俗音楽や舞踊を始めとし て、いわゆる流行ともいえるほど多くのファンを持つ ようになった。その一方で村では、働き手の若者は外 国に出稼ぎに出て、モダンな西欧文化を持って帰って くるか、もしくは裕福な国の住民としてそこに残って しまうかという深刻な問題も抱えている。

 村の有名人に会わせてくれるというので、村の外れ まで小川に沿って歩き続ける。彼は、チャーンゴー連 盟の村の会長を務め、新聞の編集、また詩まで書くと いう。東洋風の顔立ちをしたチャーンゴー人は、この 遠い来訪者を暖かく迎えてくれた。彼は、自分の民族のアイデンティティに危機を感じている一人である。 約五〇年停止している母語による学校教育をめざして いること、EUの少数民族議会を通じて世界に訴えか けているという現状を話してくれた。(なお現在で は、いわば塾のような形でハンガリー語の教育がいく つかの村で行われている。)

「母語を失う」。それは果たしてどんな意味を持つ のか。私たち日本人のように、文化が守られているも のには想像もできないのかもしれない。しかし、ヨー ロッパでは、どこにおいても、こうした民族問題が緊 張感を生んでいる。もはや公用語であるルーマニア語 しか話さぬ子供達からは、彼らの言語の危機が確かに 感じられた。

 ゲルゲイは彼に、ひとつ私のために詩を書くように と頼んでくれた。数日後に受け取ったものには、「知 らせを運ぶもの」という題がついていた。内容は、次 の通りである。遠いアジアに住む私たち日本人へのあ こがれ、そして、ヨーロッパまで移り住み、いまや生 存の危ぶまれるチャーンゴーたちのことを伝えてく れ、というものである。

 消えつつある文化の儚さとともに、それを守ろうと する人々の執着、数少なきものの、なんとも不利な世 の中であることかが思い知らされた。そして、そうい う文化のなかにいかに価値あるものが多くあること、 本国よりも純度の高い、古くからの要素をより多く残 していることが分かった。私がルーマニアの果てで目 にし、感動したものは、恐らく何十年前はどこの世界 にもあったであろう人々の生活。空間だけでなく、時 代をも遡ったかのような旅であった。

(終わりに、私の友人であるとともに師であり、チ ャーンゴーのために全てを捧げてきた写真家チョマ・ ゲルゲイ氏に感謝をいたします。)


(パプリカ通信2004年7・8月合併号掲載)