谷崎 聖子
人目をひく大胆な花模様を胸元、背中にまとい、足首までとどく朱色の襟の広いコート。これが昨年の大きな収穫物であった。トランシルヴァニア地方で一年に一度だけ開かれる骨董市で、はじめは興味本位で近づいたのが、そのうちに本当に気に入ってしまった。花の刺繍は見るからにしてフォークアートの真似のようであるし、四角形の大きなえりの型はハンガリー平原地方のスゥールと呼ばれるコートを連想させる。誰かはこれをフォークロア・キッチュと受け取るであろう。それでも洋服で、これほど暗号的に「ハンガリーらしさ」を形にした例もまず珍しい。時代は特定できないが、恐らく30年代頃に流行ったものか、その流れを汲むものにちがいない。
すると、去年の9月にブダペスト歴史博物館で見た「パリとブダペストの服飾史」の展示が思い起こされた。
ファッションの中心地がパリであるのは周知のことである。この展示では、17世紀から20世紀にかけてのファッションを通じて二大都市の様子をうかがうことができる。貴族の装うきらびやかなナイト・ドレスやシルエットの美しいジャケットに始まり、ここ数十年の流行を変えてきたディオールやクレージュなどのドレスまで一同に並ぶ。その時代の趣向をよく表す「新しさ」と、手仕事の最上の「テクニック」にため息をつくばかりである。
その中でも印象的だったのは30、40年代にかけて流行したハンガリー様式の衣装である。もちろんブダペストには、パリほど歴史の深い工房などない。それでもパリという文化発信地からブダペストへの影響を示す作品の並ぶなかで、それは大きな流れに対抗するかのように堂々としたものであった。
では、ハンガリー発の様式とは具体的にどんなものであろうか。
19世紀から20世紀にかけての転換期に、ヨーロッパ中で新様式、アール・ヌーヴォーが花開いた。それはこれまでにない早さで、ハンガリーにも上陸することになる。それは、例えばウィーンのセセッションと名前は同じくしながらも、全く違う形をとって表われることになる。
1896年、レヒネル・エデンによって工芸博物館が完成する。レヒネルといえば、あの独特のスタイルでハンガリー・アールヌーヴォーの生みの父となった人物である。他のヨーロッパ諸国とは起源を異なる、アジアから引き継いだ古い、純粋な「かたち」は民俗の文様にあると考え、民俗装飾をもとにした作品をハンガリー独自の様式として発表した。
それは建築という枠を越えて、家具、陶芸、ガラス、テキスタル、本のイラストなど工芸のあらゆる分野に多大な影響を与えることになる。20世紀始め、国際博覧会のパビリオンがどれもハンガリー様式で埋め尽くされていたことは、いかにそれが流行の主流を占めていたかを物語っている。
いわゆる貴族階級が民俗芸術に関心を向けるようになったのは、19世紀の末頃であった。もともと家庭で自分のために作る目的のもの、というのが前提であったのが、この頃に市場へ運ぶ目的でも作られるようになった。(そのきっかけとして、エリザベート妃が1885年の展示会で見たカロタセグ地方の刺繍を気にいって、たいそうな金額で購入した、というエピソードもある。)素朴な刺繍や織物への需要は、農村に生きる女性達に仕事を与えることになる。この新しい産業は、この時期に盛んであった万博などの国内、国際博覧会によって大好評を得ていった。このようにして、ハンガリーだけでなくヨーロッパのあらゆる地方において手工芸運動が起こったのである。
カロタセグ地方はその最も成功した例で、このようにして芸術家達の憧れの地となった。彼らは本物の民俗芸術を見ようと数多く訪れ、その興味を民俗学の領域にまで深めていったのである。
二十世紀始めのブダペスト郊外にあるグドゥッルーは、数多くの芸術家達が集う場所であった。このグドゥッルー芸術家コロニーの新しさとは、主に工芸部門に力を入れ、芸術を生活の中に取り入れることに成功したことであろう。
中心人物であったクルシュフーイは、カロタセグの民俗衣装をもとに、ファッションを改革するように提案した。それを実践したのは、ハンガリー様式ファッションの第一人者とされるウンディ・マリシュカである。民俗衣装をヒントに洋服のカットをしたり、刺繍を取り入れたりという風にして、彼女の作品はこれまで芸術の分野になかった服飾に対する目を大きく変えることになる。当時の権威的な雑誌「ハンガリー工業芸術」で、民俗衣装を貴族風に洗練させることに成功した、という評価を受けたのも、注目に値する。
第一次大戦後、アール・ヌーヴォーの火が消えてしまったあとでも、この伝統はさらに引き継がれることになる。30年40年代にかけてハンガリーファッションはより広い層に広がってゆく。トゥドゥーシュ・クラーラは、その立役者の一人である。
36年に「パーントリカ」というサロンを開くと、そこは著名有名人の集まる場所となった。39年には、ラーコーツィ通りのファッション館(現在のコルヴィナ・デパート)に独自の婦人服部門を開く。そこでは高級服だけでなく、大衆向けのプレタポルテの服も置かれていた。こうして彼女の手がけた洋服は、スカンジナビア諸国、スイス、イギリスなどでも大きな成功を収めるようになった。
「成功の秘訣は?」というインタビューに対し、「洋服はハンガリー的であるべきだけれども、素材、シルエット、装飾の点で一度に全部というのはだめ。」と答えたという。つまり、あくまで都市の装いであって、一線を超えて農村の衣装になってはいけない。この微妙なバランスがあってこそ、国際的にも通用する作品が生まれたのだ。
また背景には、30年代始めのファッション界でエスニックの衣装に興味が寄せられていた、という風潮もあった。ごく最近でも民族衣装やフォーク・アートのブームは、いくども押し寄せてはひいてゆく波のようであり、ファッションの重要な源泉のひとつとなっている。
では、ハンガリーファッションの世界に与えた影響とはどんなものであろうか。
30年代の後半、ヨーロッパの大都市でハンガリー舞踏会が催され、多くはブダペストから輸入された夜会服を着ていたということ。また、民俗風の刺繍のついたハンガリー・ブラウスは、国内外で大きな需要があったという。シュール・レアリズムを洋服で表したといわれるエルサ・スキャッパレリもまたハンガリーの刺繍に注目し、ブダペストの民俗博物館に資料を探しに来たという。1935年のフランスのファッション誌「ファミニナ」は、ブダペストが流行の中心地の一つと発表した。
もともと芸術運動として発展したハンガリー様式は、ハンガリーの黄金期とともに消えていったかのように思われているが、ファッションや手芸などの新しい消費社会に見合う形で中産階級層へと引き継がれ、その後も続いていったのである。
世界規模に文化が画一化されていく現代社会で、服飾文化も行き詰まりを見せたかのように思われる。世界中どこを見回しても同じスタイルが流行し、ファッションビジネスは消費者を操るかのように、次々と新しい品物を提供する。このハンガリアン・スタイルは、そんな現代の文化を変える鍵を持っているのかもしれない。
(パプリカ通信2004年9月号掲載)