スポーツを解析する（その十六）

オリンピックが残したもの

盛田　常夫

ドーピング疑惑

　ドーピングで三名のメダリストと一名の失格者を 出したハンガリーは、アテネ五輪ドーピング・スキ ャンダル第一位の不名誉を担うことになった。スポー ツ大臣のジュルチャーニィはドーピングに関与して いた競技団体への国家補助打ち切りを示唆し、国際 的な名誉回復に努力する姿勢を見せている。また、 ハンガリー五輪委員会のシュミット委員長もIOC の 決定に従うことを明言している。

　ハンガリーにとって気の毒なのは、重量挙げの選 手がドーピング陽性反応で文句なしの失格処分を受 けたのにたいし、ファゼカシュの場合は規定の尿量 の不足、アヌシュの場合は競技前後の検査で陰性だ ったにもかかわらず、ハンガリーに戻ってからの再 検査拒否が直接の理由になっていることだ。完全に 納得できる証拠が示されず、検査の忌避のみが処分 理由になっていることに、ハンガリー人の多くは釈 然としない気分だろう。

　ただ、いろいろな筋の意見を聞いてみると、両人 が属しているソンバトヘイの陸上クラブがドーピン グに関与していた可能性を排除できないようだ。と くに、ファゼカシュは検査前からマークされていた ようで、競技後の検査で「きわめて非人間的な取り 扱いを受けた」と語っている。彼には六名もの医師 が付き、他人の尿を隠せる可能性のある人体の穴を すべて綿密に検査されたという。このような非人間 的な扱いを受けたために規定量の尿が出なかったの だと主張している。

　ドーピング検査組織がファゼカシュをマークして いたのは、ドーピングに関する匿名の内部告発の手 紙がハンガリーからWADA に届いていたからだと言 われている。ソンバトヘイの投擲選手が告発したの ではないかと言われている。その告発文には、肛門 の中に他人の尿の入った袋と管を忍ばせ、検査でこ れを出すという手の込んだやり方が示されていたよ うだ。それでファゼカシュに対する微に入り細に入 る検査となった。ただ、どのような状況であれ、排 出できた尿量が二五ml というのはいかにも少ない。 要求されている七五ml の量など、それほど水を飲ま なくても一.二時間で簡単に出る量だ。四.五時間 経ってもこの程度の量すら出せないのは、出したく なかったと思われても仕方がない。

　不思議なことに、ファゼカシュと同じクラブに属 するアヌシュの検査は簡単に済んだ。明らかに、ド ーピング検査組織はアヌシュをマークしていなかっ た。同じクラブに属しているという認識がなかった のかもしれない。五投目が終わり、勝利を確信した ところで、やや長い時間トイレに行くという不可解 な行動が、室伏選手や競技委員に目撃されている。 競技直後に尿検査があるので、競技終了直前にトイ レで用を足すというのは奇妙だ。また、勝利が決ま っても最後の試技を行うのが普通なのに、アヌシュ は最後の投擲を止めたことも疑惑の一つになってい る。そして、室伏によれば、トイレで用を足した直 後なのに、アヌシュは誰よりも早く尿検体の提出を 済ませて検査室から出てきたという。これらの証言 から、再検査の実施が決められた。

　ドーピング検査組織によれば、アヌシュの競技前 と競技後の尿検体が、それぞれ別人のものである可 能性が高いという。もしそうであれば、アヌシュの 奇妙な行動が理解できるが、真相は検体のDNA 鑑 定を待たなければならない。もし別人のものであれ ば、アヌシュの選手生命が終わるだけでなく、ハン ガリー陸上界の一大スキャンダルとして糾弾されて も仕方がない。逆に、すべての検体が同じアヌシュ のものであることが証明されれば、今回の処分は疑 問視される。いずれにしても、今回の疑惑を契機 に、ドーピング検査の方法が大きく変わる可能性があ る。

ラドクリフは何故負けた

　一年前のこの分析シリーズで、ラドクリフの五輪 勝利に立ちはだかる障害を四点ほど列挙した。この うちの、怪我、暑さ、時間という要素が、そのまま アテネ五輪の勝利を阻んだ。

　二○○三年が五輪の年であったなら、ラドクリフ は文句なく優勝していただろう。コースや天候に関 係なく、絶対的な力の差が明瞭だったからだ。同じ ことは、二○○三年に現役選手最高記録をマークし た室伏広治にも言える。しかし、選手には好不調の 波がある。好調時には怪我をする確率が高くなる。 調子が良いと、どうしても限度以上の負荷をかけや すくなり、それが怪我を誘発する。昨年から今年に かけて、ラドクリフは臑と腰を痛め、ヘルニアの手 術を受けた。室伏は腰を痛めた。これで絶好調の波 は下降線に入った。四年に一度の大会に、絶好調で臨める選手はどれほどいるだろうか。五輪で勝つた めには「時の運」という要素が非常に大きい。

　ラドクリフの走りを初めて見た人は、あの激しい 首振り運動がエネルギーロスの原因だと思うかもし れない。しかし、これはほとんど影響していない。 腕の振りもかなり強いが、その割に横からみた両肩 の前後の揺れが少ない。彼女は腕を前後に振るとい うより、上下に振っているので、上体の前後の揺れ が小さい。上半身の運動で見る限り、不合理な動き はない。

　ラドクリフの走法で気になるのは足の蹴りであ る。先頭集団いた選手の中で、たとえばアレムやヌ デレヴァはストライド走法とピッチ走法の中間のテ ンポで軽やかに足を運んでいた。非常に柔らかいフ ォームだ。野口もラドクリフもストライド走法だ が、ラドクリフが足を大きく蹴り上げる走法なのに たいして、野口は小さな蹴りで歩幅を大きくとると いう走り方をしている。ピッチ走法に近いストライ ド走法なのだ。アテネの長い登り坂でどちらの走法 が合理的か、明らかだろう。ラドクリフの走法は一 万米の走法。これで登り坂を走ると、余分な疲労が 溜まるのは目に見えている。

　テレビ中継を見始めた時にはすでに一○キロを過 ぎていたが、ラドクリフは集団の中で走っていた。 この時点でラドクリフは勝てないだろうと予想し た。ラドクリフが勝てるのは、ダントツの一人旅の 場合だけ。他の選手と競った経験がないので、駆け 引きができないからだ。このままダンゴで行けば、 アレムかヌデレヴァが三○キロ過ぎてから抜け出る と思っていた。

　ここ二年ほど、ラドクリフは集団の中で競って走 ったことがない。五輪前の国際陸上グランプリ大会 でも、ペースメーカーをつけた一万米に出場して、 圧倒的な強さで優勝した。マラソンと一万米の両種 目制覇を狙うために準備だったが、「二兎を追う者 は一兎をも得ず」の諺の通りになった。スピード練 習とスタミナ練習は相反するので、これを同時に追 求するのはかなりの冒険になる。さらに、単独レー スを続けていると、集団でスピードが何度もギアチ ェンジされるレースに巻き込まれた場合、今までに 経験したことのない対応を迫られ、予想していない 疲労が生まれる。だから、ラドクリフが勝つのは、 最初から飛ばしてそのまま突っ走るケースで、その シナリオが崩れた場合には勝てないと考えた。それ でも、昨年なら絶好調があらゆる障害を克服してい っただろう。しかし、今年は下降状態に入っていた から、それができなかった。

　ラドクリフやヌデレヴァを完膚無きまでにうち負 かした野口は立派。アテネのコースで二六分台は、 平地の二○分を切る記録に匹敵するだろう。これで 野口は高橋に並んだ。

　それにしても五輪は魔物。驚異的なマラソン世界 記録を持つラドクリフは、これで無冠のまま競技生活を終わることになろう。トラックでもマラソンで も、ラドクリフには世界選手権や五輪のタイトルが ない。これは人生の巡り合わせというしかない。ラ ドクリフの涙は、自らの悲運を嘆く涙。アテネ五輪 委員会は、ラドクリフのために、わざわざマラソン と一万米の競技日程を変更して、双方の競技への参 加が可能なように日程を開けて準備した。しかし、 マラソンと一万米の制覇という偉業は、今回も達成 されなかった。北欧の平地で五輪のマラソンが行わ れれば両種目制覇もあり得ようが、夏の大会であり 続ける限り、この偉業が簡単に達成されるとは思わ れない。

マラソン選考は要再考

　今回の五輪を見て、つくづく、オリンピックで勝 つのがいかに難しいかを知らされた。ハンガリーの チェ・ラースローは五輪前の仕上がりが良かったの に、競技三週間前に不注意で足を骨折した。すぐに 金属で骨を固定し、三日後に練習を再開したが、百 分の一秒を争う水泳競技ではこれは致命的だった。 話題のフェルプスに対抗できる力を持ちながら、四 百メドレーで銅メダルに終わってしまった。他方、 一五歳のジュルタが二百米平泳ぎの北嶋と競うこと になるなど、誰も予想していなかった。若い力の急 速な伸び、事故や怪我、天候や条件などが、予想を 超えた結果を生み出していく。

　明らかになったことが一つ。夏の五輪大会のマラ ソン代表選考に、福岡や大阪などの冬のレースを使 ってはならないこと。今回のマラソンレースほど、 冬のレース結果がほとんど参考にならないことを教 えてくれたものはない。

パプリカ通信2004年10月号掲載