スポーツを解析する(その十七)

ハンマー投げの科学

盛田常夫

 一八七センチ、九七kg 。ハンガリー系ルーマニア人のやり投げ選手を母に、東洋の鉄人と称され たハンマー投げ選手を父にもつ室伏広治。風貌も体格も日本人離れしている。砲丸投げと同様に、 ハンマー投げの選手は、相撲取りのように体の大きい人がほとんどだ。室伏の体格でさえ、この種 目では小さい方に属する。それほど、この競技は体力に任せた馬力が物を言うと考えられている。 その点では相撲と似ているが、朝青龍が早い動きで相手に相撲を取らせないように、室伏は安定し た高速スピンで、体格のハンディを補っている。体格の差を埋めてお釣りがくるほどの技術や、大 きさだけで測られない体力がある。いったいそれは何なのだろうか。瞬間的な競技だが、そこには 奥の深い技術が潜んでいる。


ハンマー投げの物理

 天候条件を無視して物理学的に考えれば、ハンマ ーの距離を決めるのは、七・二六kg のハンマーのリ リース時の速度(初速)、方向、角度である。つま り、回転から生み出すハンマーの遠心力、リリース 瞬間の投げだし方向、回転するハンマー面が地上と 作る角度の三要素である。いかに大きな遠心力を作 っていくか、ハンマー面が生み出す角度や方向が最 適経路にどれほど近いか、これによってリリースで のエネルギーのロスを最小限に抑え、ハンマーの最 適投擲距離が決まる。

 素人的に言えば、この三つの要素のうち、後の二 つの要素が技術的なものと考えがちだ。たとえば、 ハンマー面が崩れる(体軸の移動に伴って面が波を 打つ)、リリースが早すぎる(遅すぎる)と、いく ら遠心力を付けても最適軌道に入らなかったり、エ ネルギーロスが生じてハンマーの初速が落ちたりす るので、距離が伸びないことは明瞭だ。

 それでは、遠心力(回転速度)はどうか。ここに は技術要素がないだろうか。ハンマーを回転させる のは腕力だが、ハンマー投げはサークルの中を移動 できるというルールがある。体の軸を移動させて、 ハンマーを加速することができる。もし移動が禁止 されていて、静止した状態からハンマーを投げるだ けなら、腕力だけで決まってしまうが、回転移動し てハンマーの回転速度を上げることができるので、 そこに技術的要素が入ってくる。


砲丸投げとハンマー投げ

 砲丸投げとハンマー投げでは同じ重さ(七・二六 kg )の鉄球を使うが、技術の使い方が本質的に異な る。砲丸投げでは砲丸を押し出す腕力が物を言う。 もちろん、ステップを加える訳だから、長身でバネ のある選手なら有利だと言えるが、砲丸と競技者の 腕が完全に密着しているから、個人の肉体的な条件 が決定的な要素になっている。技術や戦術に余地の ない競技は、見ていて面白くない。体格が劣ってい ても、十二分に勝負できる競技の方が面白い。この 点、ハンマー投げの場合は、競技者の肉体と砲丸の 間に、ワイヤーという道具が入っている。この道具 が入るだけで、競技はまったく違ったものになる。

 一般に、道具を使わないスポーツは肉体的な条件 が決定的な要素になるが、道具が介在することによ って、道具を使う技術がより重要な要素になる。ボ ールを素手で投げる場合には肩の強さが決定的だ が、道具を使って投げる場合には、技術要素が入る というように考えれば良い。

 ハンマー投げも、回転移動なしで、静止状態で回 転・投擲というルールであれば、砲丸投げ競技と本 質的に変わらない。ところが、現在のハンマー投げ は回転と移動という二つの動作が組み合わさった動 きから構成されており、この競技に独特の技術を付 与している。ただ、技術要素が入るとはいえ、それ はあくまでハンマーの遠心力を強めるものでなけれ ばならず、腕力を補う技術である。


ハンマー距離を決めるもの

 既述したように、ハンマーの距離は理論的に三つ の要素によって決まると考えられるが、そのうちで 最も重要な要素は初速(リリース時の遠心力=回転 速度)であると言われている。角度や方向よりも、 遠心力が決定的だという統計が出ている。もっとも、 ハンマーの物理分析をやっている人はそれほど多くな いので、いまだ解明されていない点は多いはずだ。

 ハンマーの遠心力(回転速度)を決めるものは 何か。それはハンマーを引きつける力である。遠心 力に逆らい、ハンマーを引きつけることで、ハンマ ーの回転速度が上がる。この点は野球のバットスウ ィングと同じだ。ハンマーを引きつける力は腕力で ある。だから、どう考えても、腕力が第一義的であ ることは間違いない。

 バットスウィングと違うのは、体を回転させる点 だ。体を回転させることで、腕力を補足し、ハンマ ーの遠心力を強めるのだが、他方でこの回転運動が 新たな制御要素を生み出す。ハンマーは投擲方向へ 上方角度を付けて回転させるが、この時、投擲方向 のもっとも高いポイント(ハイポイント)に向かっ て体は引っ張られ、逆に投擲とは逆の後方向のもっ とも低いポイント(ローポイント)に向かって体が 引っ張り戻される。ローポイントで引きつける力を 最大限に発揮するから、このポイントで遠心力は最 大になる。

 こうした回転運動が加わることで、ハンマー投げ には回転技術、回転を支える運動能力という砲丸投 げとはまったく異なる要素が必要になる。


回転運動の軸

 前回の分析で詳述したように、回転運動は体の面 を作って回転させる。この面が崩れると、力が最適 に発揮されない。しかも、高速ターンを繰り返しな がら移動するわけだから、この回転運動は高い運動 能力と技術を必要とする。

 ハンマーの遠心力で体が引っ張られる。それで面 が崩れると、最適な投擲はできない。また、移動は 体軸の移動を意味する。高速の軸の移動は、軸のぶ れを生みだす。ハンマー速度がいかに高速でも、軸 がぶれると、軸の移動にしたがって、ハンマーが作 る面が微妙にぶれるはずだ。面が波を打つ。このぶ れが投擲角度や方向を左右するだけでなく、ハンマ ーに乗せる力のロスを生むはずだ。

 こう考えると、高速回転移動の中で、安定した回 転軸を維持できるかどうかが、ハンマー投げの重要 な技術要素になる。室伏は最後の足の踏ん張りがハ ンマーの力の源になるというようなことを言ってい るが、高速ターンで体の軸を崩すことなく、したが って面を作ったままハンマーを投げるためには、最 後の足の踏ん張りが決定的だということだろう。

 朝青龍が強い足腰で素早く動く。相手に相撲を取 らせない速さをもっている。朝青龍の動きの速さ は、他の力士とは一つ次元が違うのではないかと思 わせるほどだ。相手が彼のスピードについていけな い。体格のハンディを補って余りある速さをもって いるのが、今の朝青龍ではないか。

 まさに室伏も、体が大きいハンマー投げの選手の 中で、誰も及ばないスピード、したがって誰も及ば ない足腰の強さを持っている。これが強さの最大の 要因だと思う。室伏は百米を一○秒台で走る。多分、 世界の他のハンマー投げの選手で、これだけのスピ ードで走れる選手はいないだろう。体が大きくなれ ばなるほど、体重の負荷が足腰にかかる。いくら腕 力があっても、回転スピードを支える足腰の強さが なければ、宝の持ち腐れだ。逆に、腕力では少々劣 っても、それを足腰の強さと技術でカバーできる競 技には醍醐味がある。室伏やイチローが、それぞれ の競技の新しい境地を開いてくれているようだ。


世界記録を更新できるか

 室伏に残された課題は世界記録の更新。旧ソ連の セディフが一九八六年に作った八六・七四mが現在 の世界記録。これは驚異的な記録で、ドーピングの 可能性を指摘する人が多い。現役選手の最高記録を もつ室伏(八四・八六m)の記録とは、まだ二m近 い差がある。果たして、室伏はこの前人未踏の世界 記録を破ることができるだろうか。

 ハンマー距離が八○mを超える投擲の場合、リリ ース時のハンマー初速は秒速二九mを超える。この 遠心力が生み出す負荷はほぼ三○○kg になる。世界 陸上競技連盟の競技規則では、ハンマー投げのゲージは七・二六kg のハンマーが秒速三二mで衝突して も耐えられることが条件になっている。室伏が世界 記録を更新するとしたら、その時の初速(秒速)は 三○mを超え、瞬間的に体にかかる負荷は四○○kg になる。このスピードと負荷に耐える体と技術を磨 いていくことが、室伏に残された競技生命の課題な のだ。


追記:ドーピング効果

 ハンマー投げのドーピングの効果はどれほどある だろうか。一つのヒントはアテネ五輪で惨敗したベ ラルーシのティホンにある。彼は今季最高記録をマ ークしながら、五輪や五輪以後の競技会で八○mを 越せなかった。もし彼が五輪前にドーピングを止め たと考えれば、彼の不振は納得できる。他方、八○ m前後の記録に低迷していたアヌシュが、五輪直前 から八三m前後の記録をコンスタントにマークする ようになった。

 あくまで推測だが、もし彼らにドーピングの事実 があったとしたら、ハンマー投げのドーピング効果 は少なくとも三mはあると考えられる。もしセディ フの記録がドーピングによるものだとしたら、室伏 はすでに彼を超えている。興味はドーピングなしで この記録を超えることができるかに絞られる。