踊り人生、待ったなし : 第7回

ZENEKAR ゼネカル(=楽団)

鈴木 仁

 ハンガリーの民族舞踊の舞台を見たり、ターンツハーズ(民族舞踊を踊る集い)をのぞいてみたこと はありますか?そこでは当たり前のように、村の楽団と同じような演奏をしており、私たちも村の踊り の雰囲気を感じることができます。でも一昔前は、当たり前ではなかったんです。

 民族舞踊は他の舞踊と異なり、村の踊りから離れていかないようにしようというのが、今では一般的 な考えになりました。これは、民族音楽についても同じことです、音楽は踊りとは切っても切り離せま せんから。このための努力が今でもなされています。今回は民族音楽を支えた人々、そしてダンスのた めに演奏してくれるゼネカルについて書いてみようと思います。


リサーチの時代

  話は一一〇年前にさかのぼります。一 八九六年、一人の民俗学者が蓄音機を担 いでハンガリーの村々を回り民謡を録音 するという活動をはじめました。この人 の名はヴィカール・ベーラ(Vikár Béla) 。 蓄音機の登場以前は速記術(!)を用い てその場で民謡の歌詞や民話を書き下す という大変なことをしていた人です。

  ヴィカールは、「このようなリサーチ 活動は音楽家向きの仕事ではない」と考 えていましたが、ここで登場するのが、 皆さん、もご存知のバルトークとコダー イ。作曲家もしくは音楽教育家として有 名かもしれませんが、実際は、彼らのリ サーチ活動のほうが(少なくとも僕のよ うな民族舞踊に関わる人間にとっては) 重要です。彼らは初めは二人で、後には できるだけ多くの村をまわるために別々 にハンガリー中をまわり、多くの民謡を 収集し、そしておまけにそれらを分類・ 整理する基礎を作りました。(今でもこ の仕事はハンガリー科学アカデミーの民 族音楽・舞踊部門で続けられいます)

  時は流れ一九三六年、ハンガリーラジオ のスタジオで初めて民俗音楽の録音がなさ れ、その翌年からより組織だった録音が継 続されました。この録音はバルトーク・コ ダーイに加えて、彼らより十歳ほど若いラ イタ・ラースロー(Lajtha László) の指導の もとはじめられました。ライタは第二次大 戦後ハンガリー民俗博物館の館長になり、 戦争で中断していたこの録音活動を民俗博 物館で再開し、それは彼が亡くなる一九六 三年まで続けられました。これらの録音は パートリア・シリーズと呼ばれています。


五〇年・六〇年代の舞踊団では

  パートリア・シリーズの一部はレコー ドの形で世に出され、舞踊団にも行き渡 りました。こうして実際に村を訪れなく てもどんな演奏がなされているのか知る こ と が で き た の で す 。 し か し 、 こ の レ コ ードにあわせて練習することは無理で した。なぜでしょう?   それは、あまり にも録音が短すぎたのです。

  舞台用にはジプシーオーケストラが演 奏することもありましたが、彼らの演奏 は パ ー ト リ ア か ら 知 る こ と の で き る ス タ イルとは違います。練習はピアノの演 奏で、また舞台用に音楽学校の学生で編 成した楽団も演奏しましたが、これにも 問題がありました。音楽家たちは楽譜通 りにしか演奏できなかったのです。

  村では踊りが即興で踊られているよう に、演奏も即興です。村の楽団には楽譜 はありません。彼らは多くのメロディを 組み合わせて、踊り手達のリクエストに あわせて即興で演奏しているのです。


シェブー・フェレンツ(Sebô Ferenc) と ハルモシュ・ベーラ(Halmos Béla) 登場

  この時代には、都市の舞踊団と村の踊 り手達の交流会が定期的に開かれていま した。ある時バルトーク舞踊団が交流相 手の地方の踊りをもとにした、舞台用の 振付けをみせたことがあったそうです。 その場で村人は即興で踊り始めました。 これが観客に大うけ。なぜなら舞踊団の どこか機械的な踊りよりも、はるかに生 き生きとして見えたからです。 これ以来バルトーク舞踊団は、村の踊り の踊り方を追求しはじめました。しかし、 どんな演奏で練習したらいいのでしょう?

  パートリアのレコードは使えない、音 楽家は楽譜がなければ弾けない。かとい って村の楽団をいちいち呼んでくるわけ にも行かない。そんな頃に彗星のごとく あらわれたのが、シェブー・フェレンツ とハルモシュ・ベーラなのです。

  彼らは大学の建築学科の同級生で、二 人とも子供の頃から音楽の心得はありま したが、特に民族音楽だけを志していた わけでなく、いろいろな分野を演奏してい ました。民族音楽もそのうちの一つで、ハ ルモシュはパートリアからセーク村(Szék) の演奏を独自に練習していました。

  そんな頃にバルトーク舞踊団にも顔を 出していたマルティン・ジュルジが、彼 らを見つけだしたのです。マルティンは 自分が収集したセーク村の踊りの取材フィ ルム(その頃はすでに音声付きでした) を彼らに見せて、村の演奏法を学ばせま した。以前からこのフィルムで舞踊団は 村の踊りを研究しており、ついに踊りと 演奏がセットになったのです。一九七〇 年のことでした。

  この後シェブーとハルモシュは、バル トーク舞踊団のゼネカル(楽団)として、 そしてターンツハーズ運動の中心として 民族音楽に関わっていくことになります。


ターンツハーズで

  そして一九七二年、ブダペストで最初 のターンツハーズが開かれました。シェブーとハルモシュが演奏を担当したのは 以前にも書いたとおりです。ですがたっ た二人では、舞踊団とターンツハーズの両 方には手が回らなくなるのは簡単に想像 できます。こうして需要が増えたため、ゼ ネカルも次々に誕生・成長していったの です。ムジカーシュやテーカ、メータなど 今では有名なゼネカルもこうした流れで誕 生したのです。


おまけ:ゼネカルの紹介

何でも演奏できるプロ楽団

[ムジカーシュMuzsikás ] ハンガリー で一番有名なゼネカルです。これまた有 名な民謡の歌い手シェベシュテェーン・ マールタと一緒に舞台に立つことも多い です(彼女はもともとムジカーシュのメ ンバーで、バルトーク舞踊団に所属し て い た こ と も あ る は ず ) 。 タ ー ン ツ ハ ー ズ初期、もっとも主要なゼネカルでした。 しかし、現在定期的に演奏しているのは、 子供ターンツハーズだけのようです。

[テーカTéka ]僕個人にとっては最も なじみのあるゼネカルです。というのも 月 一 回 舞 踊 団の練習場として使っている 場所でターンツハーズを開催しているか らです(もちろん毎回参加)。舞台活動だ けでなく、リサーチや次の世代の教育に も力を入れている、民族音楽ゼネカルの リーダー的存在といえるでしょう。

[メータMéta ]このゼネカルも歴史があ りますが、目を引くのはなんといっても、 女性プリマーシュでしょう。現在ハンガ リー国立民族舞踊団の舞台での演奏を担 当しています。

[ドゥーヴーDûvô ] 初めてCDで彼ら の演奏を聴いて以来、僕のお気に入りに なりました。おやじ四人組のゼネカル。 北ハンガリーを活動の拠点としています。 (最近五枚目のCDを出したそうなので 買わなきゃ。)

[フォノーFonó ]一昔前はヘゲドゥーシ ュ・ゼネカルという名前でしたが、最近フ ォノー・ゼネカルと名称を変えました。メ ン バ ーにスロバキアのハンガリー人の音楽研究家アゴーチ・ゲルゲイと、国立民族 舞踊団のソロ歌手としても歌っているヘ ルツク・アーグネシュが入っています。

その他、[ガルガGalga ]、[ガージ ャGázsa] などもおすすめです。

スペシャリストたち

[コロンポシュKolompos ]子供ターン ツハーズといえばこのゼネカル。チッラ グセムー舞踊団の舞台で演奏していたこ ともあります。コントラを弾いているの は、僕の師匠の息子です。

[カ イ ・ ヤ グKalyi Jag ] ツ ィ ガ ー ニ ( ジプシー)の民族音楽といえば最初に 名前が出てくるのがカイ・ヤグ。いわゆ る「ジプシーオーケストラ」ではなくて、 自分たちのために歌っていたものを守り 続けています。踊りを披露してくれるこ ともあります。

[ベーケーシュ・バンダBékés Banda ] 今までに踊りのほうで記事にしましたルー マニア人の踊りの演奏をしています。メー ケレーク村でもエレク村でも彼らの演奏 で踊りました。

[ズルゴーZurgó ]モルドヴァ・チャン ゴーのターンツハーズで演奏しています。 ちなみにモルドヴァにはハンガリー人の 最も古い起源の音楽が残っているとされ ています。

[マジャル・テケレーゼネカルMagyar tekerôzenekar ]特定の楽器のゼネカルと して、テケレー(ハーディ・ガーディ) の楽団を紹介します。ちなみに、主にテ ケレーが民俗音楽で使われているのはハ ンガリー大平原の南部です。

村の楽士・楽団

ブダペストで演奏を聴いたことがあるゼ ネカルのみ紹介します。

[マジャルパラトカイMagyarpalatkai ] 月一回フォノー・ターンツハーズで演奏 を聴くことができる、トランシルバニア ・メズーシェーグ地方の村の楽団。少し前 にプリマーシュの一人が急死するという 不幸に見舞われましたが、活動は途切れ ることはありません。ターンツハーズは いつも満員になります。

[サースチャーヴァーシSzászcsávási ] 十年ほど前に「発見」され、大流行が起 こったサースチャーヴァーシュ村の音楽、 それは彼らのおかげです。すでに日本や アメリカでも演奏しています。僕も一度 サースチャーヴァーシュ村に行ったことが あるのですが、あんな小さい村にあのよう な音楽が残っているというのは驚きです。

[ゼルクラ・ヤーノシュZerkula János と フィコー・レギナFikó Regina ]トラン シルバニアの東の果てにあるジメシュ地 方の老夫婦。夫がバイオリンを、妻がガ ルドンという打楽器を弾きます。

[フ ォ ド ル ・ シ ャ ー ン ド ル “ ネ ッ テ ィFodor Sándor „Neti” ]今年一月号で書 いたように、今やCDでしか彼の演奏を 聴くことはできません。残念なことです。


  この四月号が出る週の週末、四月二日 ・三日にブダペストアリーナでターンツ ハーズフェスティヴァルがあります。こ れらのゼネカルも参加します。年に一度 のお祭りです。ぜひお出かけ下さい。


パプリカ通信2005年4月号掲載