社会・経済を比較する(その三)

過剰経済と不足経済

盛田 常夫


  ウィーンのベルベデーレ宮殿近くに、ビュー ゼンドルファー通りがある。ピアノ製造会社ビ ューゼンドルファーの発祥の地である。この工 場跡地は、現在、本社事務所を兼ねた展示場に なっており、ピアノ製造工場はハンガリー国境 に近いノイシュタットの町にある。

  今ではスタインウェイに押されているが、そ れでもビューゼンドルファーは世界を代表する 高級グランドピアノのメーカーだ。さぞかし大 きな工場だろうと思っていたが、訪問して見る と、木工工場という風情なのだ。工場の技術者 だけでなく、管理・販売スタッフを含めても、 総勢二○○名弱。年間の製造台数が二○○台程 度だから、売上の規模も知れている。

  日本の静岡には、河合楽器のグランドピアノ 製造工場(竜洋工場)がある。一○万平方米の 広大な敷地に、グランドピアノの大規模な製造 ラインが設置されている。世界一大きいグラン ドピアノ工場だ。ここでは、車の製造と良く似 た組み立てラインで、年間六千台以上ものピア ノが生産される。もちろん、従業員数もビュー ゼンドルファーの比ではない。


注文生産と大量生産

  この二つのピアノ製造会社を喩えてみると、ビュー ゼンドルファーが中規模の家具屋さんとすれば、河 合楽器は大規模製造業。家具屋さんと大企業では、 ビジネス目標も作る製品も違っている。ビューゼン ドルファーが手作りの注文生産だとすれば、河合の それは機械制大工業による大量生産。ピアノの品質 も価格も違う。

  ヨーロッパと日本の物づくり違いはピアノだけに 限らない。ベンツやBMWを購入する場合には、何 百とあるアクセサリーから予算と好みに応じて発注 する。発注から納入まで三ヶ月から半年もかかるこ とがある。これにたいして、日本ではそんな悠長な 買い方・売り方をしない。最小限のアクセサリー込 みでいくら、ということになる。一々、お客の細か な要望に応えていたのでは、手間暇がかかり、値段 も高くなってしまう。だから、すべて一律のアクセサ リーで、どれほど割引するかというビジネスになる。

  もちろん、ベンツやBMWあるいはビューゼンド ルファーにしても、完全注文制で生産している訳で はない。不特定多数の顧客を対象にしながら、ある 程度限定された顧客層にターゲットを絞り、代理店 からの注文数を睨みながら、生産台数を調整してい る。他方、大量生産を行っている河合にしても、不 特定多数の顧客を想定しているとはいえ、販売実績 と市場動向を見極めながら、生産台数を決めている。

  だから、完全注文制や完全不特定多数相手の大量 生産制などは現実に存在しないが、生産の考え方や 体制が、より注文制に近いのがヨーロッパの高級製 造会社で、より不特定多数相手の大量生産に近いの が、日本の製造大企業だと言える。明らかに市場規 模に規定された製造・販売戦略にもとづくビジネス の違いだと言える。


市場均衡は虚構

  中学の公民教科書に始まり、大学のテキストにい たるまで、すべての経済学教科書では需要と供給が 一致するところで、受給量と価格が同時決定される と説明されている。しかし、現実にこのような形で 決まる市場はまずない。教科書の説明が成立するた めには、「供給(生産)者と需要(消費)者が商品や 技術にかんして同等の情報を保有している」という条 件が満たされていなければならないが、そのような条 件が保証されている市場など、どこを探してもない。

  「市場均衡」という概念は、市場の理想的状態を 想定して考え出されたものだ。そういう理想的な基 準を中心に、現実の市場が動いていると説明したいの だが、本当にそうなっているのか、経済学は証明でき ない(抽象的数理モデルの均衡証明は存在するが)。

  実際に存在している市場は、大概が、売り手市場 になっているか、買い手市場になっているかのどち らかだ。需要が殺到する、あるいは生産が限定され ている場合には、売り手市場になり、注文生産制に 近い状態になる。売り手市場の場合には、売り手が 製造量と価格の決定権を握り、生産者主権的な状態 が生まれる。他方、供給過多の場合には、買い手市 場になる。不特定多数の買い手をめぐって多数の生 産者が販売を競うと、買い手市場に近い状態になる。 買い手市場の場合には、買い手が価格決定の主導権 をとり、消費者主権的な状態になる。

  現実の経済は、過剰供給にあるか、過小(不足) 供給にあるかのどちらかで、教科書が教える「均衡」 状態など、どこを探しても存在しない。ということ は、現実の経済では、「過剰均衡」か「不足均衡」 が平常的(ノーマル)な状態なのだ。こういう現実 を分析するのに、正統派経済学の「均衡」理論が適 切だろうか。

  こういう問題提起をしたのが、ハンガリー人経済 学者のコルナイ・ヤーノシュである。数理経済学で 「一般均衡理論」が全盛時代を謳歌していた一九六 ○年代から一九七○年代にかけて、この正統派理論 にたいする挑戦の書を世に問うたのが、『反均衡の 経済学』(日本経済新聞社刊、一九七五年。原書は、 Anti-Equilibrium, 1970 。この著作でコルナイは一 躍世界の経済学界で知られる存在になり、一九八○ 年に刊行された『不足の経済学』(Economics of Shortage, 1980 )で、ハーヴァード大学経済学部に テニュア(終身在職権)をもつ教授として招聘され ることになった(一九八四年)。


不足経済のメカニズム

  コルナイによれば、社会主義経済を動かしている 原理は、「不足」だと言う。経済計画を立案する人 々は、市場の「不足」状態を重要な指標として、そ れぞれの経済部門の計画生産量を決定するのだと言 う。たとえば、旧東ドイツの伝説的な乗用車トラバ ントは安くて人気があった。生産国の東ドイツでは、 注文から実際の購入まで一○年も待たなくてはなら ず、ハンガリーでも三〜五年の待機時間が必要だっ た。ハンガリーでは乗用車を生産していなかったの で、すべて輸入販売だったが、その輸入台数を決め る重要な指標は、「待機時間」だった。これは車種 ごとに違っていて、トラバントの平均待機時間が五 年だったとすると、待機時間が平均より長くなる場 合には輸入量を増やし、逆に短くなる場合には輸入 量を減らすという形で、販売量を調整していた。

  このような極端な売り手市場にある商品の場合、 生産者は技術革新の必要性を感じない。常に一○年 先までお客が並んでいれば、何の経営努力も必要な い。実際、トラバントは一九五○年代のモデルで、 体制崩壊にいたる三○年間、ほとんどモデルチェン ジのない車種だった。

  コルナイは、社会主義経済はほとんどの市場が売 り手市場になっていて、不足状態が一般化した「不 足経済」だと規定した。これがコルナイの不足経済 論である。このような経済では多くの商品購入で、 消費者は行列(待機)しなければならない。当然、 経済全体が生産者主権で機能し、売り手や官庁が威 張る。このような経済では商品在庫が必要なく、生 産者が楽できる経済だ。生産者とは対照的に、消費 者は商品の入手に苦労する。

  同じ一人の人間は生産者と消費者の二重の役割を 担うから、工場の管理者として威張っていても、一 人の消費者として苦労するという矛盾した現実の中 に生きる。こういう経済社会ではコネによる商品の 横流しが蔓延する。それが腐敗の温床になる。

  今のハンガリー社会でも、不足経済時代の名残が 見られる。未だに生産者(公共サービス供給者)や 官庁の中には、勘違いして威張っているところがあ る。人を待たせるのも平気というのも、不足経済時 代の名残なのだ。ハンガリー人が辛抱強く行列で並 んでいるのも、不足経済時代の行動慣性なのだ。


ノーベル経済学賞

  コルナイの『不足の経済学』は旧ソ連圏のほぼす べての国で翻訳され、経済学者に大きなインパクト を与えた。ソ連では一般刊行は許可されなかったが、 専門家の間の検討にロシア語版が作成された。他方、 中国ではコルナイのすべての著作を翻訳・出版し、 「経済体制改革」への理論的指針に祭り上げ、中国 の市場改革イデオロギーとして利用した。こうして、 コルナイ理論は体制転換にいたる経済改革のバイブ ル的な著作になった。

  一九九○年から数年にわたり、コルナイがノーベ ル経済学賞を受賞するという推測が広がった。歴史 的な社会変動への経済理論面での貢献が評価される だろうという予想であった。ノーベル経済学賞が設 立されてから、経済理論が現実へのインパクトをもっ た事例などなかったから、多くの巷の経済学者がそう 考えた。筆者も、日本の新聞社の依頼に応じて、二年 にわたり受賞時のコメントを準備してスタンバイし ていた。コルナイ本人もその気だった。それからもう 一○年以上も時間が経ったが、何の音沙汰もない。こ の間に、ハンガリー人のハルシャーニィが、ゲーム理 論への貢献でノーベル経済学賞をとってしまった。

  今、ノーベル経済学賞は応用数学の定理を証明し たような小物の数理経済学者に贈られる傾向にある。 経済学がイデオロギーと「科学」との相克の中で苦 しんできたことから、「数学的に証明できるもの」 だけを受賞対象にしているように見える。これはま た別の問題をひき起こしている。「純粋数学にノー ベル賞がないのに、経済学に名を借りた応用数学に ノーベル賞を贈るのは詐欺ではないか」、という批 判が数学者の間で強い。純粋数学から落ちこぼれた 者が数理経済学という応用数学をやっていると、数学 者は考えているのだ。それは間違っていないだろう。


パプリカ通信2005年5月号掲載