トコロかわれば...:第18回

日本人が見習うべきこと

鷲尾亜子

 人間は、誉めるより批判する方が、よほど簡単である。外国に行けば、日本や日本人がそれほど立派ではない のに、気がつけば愚痴を言い、批判している。ハンガリーのように、日本よりも所得が低かったり、つい15年ほ ど前までは社会主義という名の下に歪んだ異質の諸制度をとっていたりした国ならばなおさらのことだろう。

 しかし、今回は大いにハンガリー人に見習うべきところを書きたいと思う。それは「挨拶」である。


挨拶後進都市から大国へ

  いつの頃からなのだろう。これほどまでに、日本人 が挨拶をしなくなったのは。地方の村ならばともかく、 都会は本当にひどい。必要最低限の挨拶もしないので ある。ぶつかっても謝らない輩はごまんといるし、それ どころか仕事場でも、朝に挨拶しない人がいる。幼稚 園や小学校の壁に掲げられていた「挨拶はきちんとしま しょう」という標語は、いったいどこへやら、である。

  そういう私も東京生まれ、東京育ちなので、必要最 低限の挨拶しかしなかった。近所の人に挨拶するのも、 会釈程度。挨拶はした方がいいと思いつつ、正直面倒 だった。

  社会人になって一人暮らしを始めたら、ますますひ どくなった。最初はワンルームマンションだったため、 隣近所も若い独身者ばかりだった。皆が賃貸のため、 住人が頻繁に変わるということもあっただろうが、挨 拶をしないのは当然のこと、エレベーターで一緒になっ たりすると、何の悪いことをしたわけでもないのに、 目をそらした。あの狭い空間は、息が詰まりそうで、 ランプが自分の階に着くまで時間が長く感じたもので ある。

  それが、私は一気に「挨拶大国」に来てしまったの である。ブダペスト、という人口二百万の首都です ら、人々は本当によく「ヨーナポット・キヴァーノッ ク!」「チョーコロム!」「スィア(スィアストッ ク)!」とやっている。

  以前勤めていた会社は、数社が入るビルの中に仕事 場があったため、エレベーターでは他社の人と一緒に なると、かならず挨拶した。近所の者どうしで挨拶す るのも当然である。以前住んでいたブダペスト市内の アパートでは、近所どうしで挨拶するのは当然のこと、 敷地内の庭の掃除を定期的にしていたおじさんにも挨 拶していた。子どもも「チョーコローム!」とよく挨 拶してくれる。時には私が東洋人であるため、様子を 伺うような(場合によってはジロジロ)人もいるが、 こちらから挨拶すると、大抵はホッとしたような顔を して返してくれる。


挨拶虫

  ここまではそう驚くことでもないが、感心したの は、おおよそ東京では想像もできないところでの挨拶 である。例えば待合をする病院の廊下。後から来た人 が「ヨーナポットキバーノク!」と言う。ヨガのクラ スでも、後から入ってきた人はかならず「スィアス トック!」だ。親子のリトミッククラスも然り、家の 近所の柵付きの公園では、入ってくる親は「スィアス トック!」と言い、子どもに「あなたも言いなさい」 と促している。そして、こういう場所では、皆、去る ときにまた挨拶する。そのような時、私はいつもこう 思うのである。「挨拶虫が、蛍みたいに飛んでいる なぁ〜。」

  「挨拶する虫」、「挨拶しない虫」というのはどう やら伝染するようである。「挨拶の虫」が八ー九割の 大きな勢力を持っていれば、「しない虫」も「する 虫」に変色する。逆に、地方出身者が都会に来て挨拶 しなくなるのは、都会では「挨拶しない虫」が大半だ からで水が濁っているからである。幼稚園や小学校の 標語は頭に残っていても、挨拶しても気持ちいい返答 がなければ、挨拶の虫は変色せざるを得ない。朱に交わ れば…というものだ。

  もちろん、ハンガリー人の挨拶虫も無限と言うわけ ではない。見ず知らずの他人への挨拶は、ある一定の 広さの空間で、ある一定の人数の人 間がいるところでしか行われない。 場所があまりに広かったり、何百人 もいたりすれば違ってくる。しかし 逆に言えば、限られた空間、人数の 場所ならば、どこでも九割がた挨拶 をする。一体ハンガリー人がどの程 度の床面積と人数までなら挨拶する のか、そんな調査があったら面白い だろうな、と思う。そして、ぜひ日 本人(都会と地方に分ける)に同様 の調査を施し、比較してみたいもの である。

  どこの国でも、三百人がすし詰め になっているパーティ会場に足を踏 み入れる時、わざわざ「こんにちは」 と言う人はいないだろう。その意味 においては、どこでも二十平米当た りに平均二十人はいそうな過密状態 にある東京の人間が、挨拶をしなく なるのも理解できないでもない。し かし、問題は、東京の人間は、その過密状態に感覚が完全に麻痺してし まったのか、二十平米あたり三人に なっても、挨拶をしないことである。

  そうするとどうなるか、というと、 限られた空間の中で知らない人間が いるというのは落ち着かないことで あり、冒頭のエレベーターの中のよ うに緊張してしまう。それがもし「 あ、どうも」だけでもあれば、緊張 はほぐれるというものである。(尤 も 、 ス ト ー カ ーや変質者が多く出没するような物騒 な世の中ではそうも言っていられないのかもしれない が。)


効果は同じ

  そもそも、欧米人が挨拶をする目的は、同士、仲間 である確認、また「敵ではない」という意思表示と言 われる。これは欧米人が狩猟民族で、絶えず争い、性 悪説を信じているからだ、という説がある。一方、農 耕民族である東洋人が挨拶するのは、相手を尊重・尊 敬している、という印。「礼儀」を尽くす意味での挨 拶である。内には礼儀を尽くすが、外には尽くさなく てもよい。だから、仕事場や得意先では気持ち悪いほ どぺこぺこと挨拶をする人間が、賃貸マンションの住 人(=礼儀を尽くす必要のない人間)と肩がぶつかっ てもお構いなし、ということも起こる。

  この二説の正否もわからないし、今の世の中、そん なことを考えて挨拶する人間はいないだろう。しかし、 狩猟民族であれ、農耕民族であれ、挨拶は、日常の生 活の潤滑油になり、警戒心を解く始めの一歩となるこ とは、同じであろう。

  尤も、ハンガリーも良いところばかりではない。レ ストランや店に行って、店員に完全に無視されたとい う体験を持つ方も多いだろう。これでは挨拶どころで はない。

  しかし大半のハンガリー人は、挨拶虫である。挨拶 しない虫が繁殖を続ける日本人は、大いに見習うべき である。当地に来たら、ハンガリー語が全くできなく ても、「ハロー」でよいから挨拶するべきである。無 口にしていると、「よくわからない東洋人」がさらに 警戒されることになりかねないのでご注意。


ハンガリー挨拶いろいろ

[基本形]

・Jó napot kívánok! 今日は!

・Szia  やあ! じゃあね! 友人同士、若者同士、目上→目下で使うインフォーマルな形。 会った時も、別れるときも使う。相手が複数ならば、Sziasztok! ちょっと古めの言い方は Szervusz(tok)! もともとはラテン語からきている言葉で、英語で言えば "I serve you"(あなた に仕えます)の意味。
 この挨拶を使うには、会話のとき“te(君)”を使っている間柄が前提で、 “maga / ön(あ なた)”の間柄ならば使わない。ただ、面白いのは、同じ“te”を使う間柄でも、目上の人など 少しフォーマル感を演出したいときは、Szervusz!になる。

・(Kezét)csókolom! 本来の意味は、「あなたの手にキスを!」 男性から女性、また子ども が大人に使う。いまだに本当に女性の手にキスをする(とてもフォーマル)男性がいるが、例外 中の例外。


[頬にキス]

・女性同士、男性・女性の間、親子で2回する。普通1回目は左の頬、2回目が右の頬で、本当に “ぶちゅっ”とキスをする人はあまりいない。頬キスは親しい間柄の一つの証のようなもの。初 対面の人には握手。ただし、ホームパーティーで帰るときは、すでに握手から頬キスに発展して いることの方が多い。また、冠婚葬祭のときは、頬キスが一般的。

 フランスやドイツは地方によって、キスの回数が違うらしいが、ハンガリーは例外なく2回。 また男性同士は友人でも握手のみがほとんど。

 いったいどういう関係になれば、キスやインフォーマルな「君」を使用すべきか、という判断 は女性、目上の人が促す。ただこれは基本のルールであり、最近はどんどんルーズになって きて、すぐインフォーマルな関係に入ることが多い。


[全員に挨拶]

・ホームパーティーなど、入ってきたら全員一人一人に挨拶する。男性ならば、かならず立ち上 がる。その場を立ち去るときも、それほど大人数でなければ、相手が他の人と話してようが一人 一人に挨拶する。皆に挨拶しないで、そそくさと帰るのをハンガリーでは「イギリス式」 ("angolosan távozik")と揶揄する。しかし一方、同じ帰り方を英国では「フランス式」"take a French leave"と言う。さて、フランスでは?ご存知の方は教えてください!


パプリカ通信2005年7-8月合併号掲載