ハンガリー い、ろ、は (7)

トリアノン条約とハンガリー

鷲尾 亜子

 「ハンガリーは高い山も海もないし・・・」
と当地で筆者がぼやくと必ず返ってくる反応は、
「昔はあったんだからね」というもの。

 今月は現在のハンガリー共和国の領土を決定した一 九二〇年の「トリアノン条約」とそこから生じている問 題について概観します。


国土は三分の一以下に

 ハンガリーの歴史を知るには、フン族の侵入(紀元四 世紀)から始まって、トルコによる占領(一五二六年〜)、 ハプスブルク家による統治(一七〇〇年〜)、オーストリ ア・ハンガリー二重帝国(一八六七年〜)など、幾つかの重 要な事項をカバーする必要がありますが、略史を読んで も、悲しいかな、期末試験でもない限り必死に覚えよう ともしないので、翌日には記憶が曖昧になってしまいま す。しかしそんな筆者でも、一九二〇年の「トリアノン条 約」だけは、当地に滞在するのであればかならず知って おくべきと考えています。なぜなら、現代のハンガリー人 のメンタリティーや、周辺国に住むハンガリー系との関 係などを理解しようとするには欠かせないからです。

   現在のハンガリー共和国の国土は約九・三万平方キ ロ、日本の国土の約四分の一に相当します。人口は約一千 万人。首都のブダペストから車で行けば、どこの国境線 に到達するにも二-三時間という距離です。しかし、ト リアノン条約調印以前の国土は三倍以上ありました。

   トリアノン条約とは、第一次世界大戦で敗戦したハン ガリーと勝利した連合国が一九二〇年に結んだ講和条 約。条約の名前は、調印場所であったフランス・ヴェルサ イユにあるトリアノン離宮に由来します。

   ハンガリーは第一次大戦中、オーストリア・ハンガリー 二重帝国であったわけですが、当時の領土は現在のアド リア海沿岸のクロアチア、スロバキア、ルーマニア・トラ ンシルバニア地方まで広がっていました。都市で言えば、 トリエステ(現イタリア)、オパーティア(現クロアチア)、 クルージュ(現ルーマニア)、ブラティスラバ(現スロバキ ア)などが含まれていたのですから、相当な大きさであっ たことが伺えます。ブラティスラバに至っては、ハンガ リーの首都だった時代もあるくらいです。

   これだけの領土が、連合国の側についた周辺国チェコ スロバキア、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のち のユーゴスラビア)、ルーマニア王国に割譲され、ハンガ リーは高い山々や海とともに実に七十二パーセントの領 土を失ってしまいました。その上、ハンガリーは、連合国 側への賠償金支払い、石炭や家畜などの提供など過酷な 要求を課されたわけで、「戦をしては敗北する」というハ ンガリーの歴史の中でも悲惨なものでした。


イレデンタ

   現在でもハンガリー人の多くは、「敗れたのは確か、賠 償を要求されるのも仕方ない。しかし、トリアノン条約 における戦勝国の要求は度を外れてあまりにも一方的す ぎないか?フェアではない」という意識を持っています。 そのため、特段民族主義に走っていなくても、「元はハン ガリー領土だった、昔はよかった」というような反応が出 てくるのです。

   昔の名残もあるのでしょうが、そういった心理は地名 にも反映されています。旧ハンガリー領土内だった主要 都市については、現在でもハンガリー人はハンガリー名 を使用します。例えば「ブラティスラバ」は、「ポジョニ」と いうように。現在最大規模のハンガリー系住民が暮らす ルーマニア西部「トランシルバニア地方(ハンガリー語は エルデーイ)」に至っては、「ルーマニアに行く」、「ルーマニア では・・・」という言い方を聞くことはまずなく、かならず 「エルデーイに行く」や、「エルデーイでは・・・」になります。 このような言い方を聞いていると、トランシルバ二ア地方 については、現在「ルーマニア領土」としてすっきりと受け 入れきれていないハンガリー人の心理がうかがえます。

   さらに急進的で民族主義者の人たちは、「これほど不 公正なトリアノン条約は無効にされるべき」と考え、ま たハンガリー国土の回復を望んでおり、「イレデンタ( irredenta)」と呼ばれています。こういう人たちの お宅に伺うと、条約締結以前の大ハンガリーの地図が壁 に貼ってあったりします。国家レベルではハンガリーと周 辺国の領土問題は現在存在しないにもかかわらず、かな りの社会的地位を持つ人や、知識階級の中にもこうした イレデンタは存在します。

   トリアノン条約締結後、ハンガリーはホルティ摂政の 下、王国が宣言されますが、近隣諸国はかつての大ハン ガリー復活を狙うものと懸念し、お互いに防衛同盟など を結びます。一方で、ハンガリーがこの時期ドイツに接近 していった背景には、ドイツの影響力を利用しつつ領土 を回復しようという企みがあったのでした。そして、第 二次世界大戦までつながっていくわけです。

    勢力拡大への意欲というのは、人間の本能というか、そ こに人間と土地がある限り、使用する武器は変わっても いつの時代も陣取り合戦があるものです。そこで敗れた ハンガリー、本来は大国だったのに二つの世界大戦を経 て国は疲弊し、しかも第二次大戦後は共産党一党支配時 代が続き西欧諸国では見られた経済成長から遅れてし まった…。ハンガリー人と話していると、そのようなプラ イドと挫折感や劣等感が複雑に入り組んでいる感じを 時々受けます。


取り残されたハンガリー系住民

   さて、トリアノン条約によって失われたのは、領土ばか りではありませんでした。人口も、同条約によって六十四 パーセント失われました。そのため、今日、スロバキア、 ルーマニア、ウクライナ、セルビアなどにはハンガリー系 住民が数百万人いると推定されています。特にルーマニ ア・トランシルバニア(エルデーイ)地方を中心に居住す るハンガリー系は一五〇万人前後にものぼり、ルーマニ ア人口全体の中でも七パーセントを占めます。こうした 人たちは、今でも「エルデーイのハンガリー人」、「ルーマ ニアのハンガリー人」と呼ばれ、本来の国籍に従って「ハ ンガリー系ルーマニア人」と呼ばれることは決してあり ません。(ハンガリー人を意味する「マジャルmagyar」 は、ハンガリー国民・ハンガリー国外に居住するハンガ リー系を区別していません。)

   このように、隣国にハンガリー民族が取り残されてし まったことは、現在でも様々な面で問題となって浮上し てきています。現在居住する国での待遇に関わる問題 や、ハンガリー人なのだから、ハンガリー国民と同様の権 利を与えるべきか否か、といった問題です。ただ、こうし た問題は、ハンガリーでは国内ハンガリー人の民族意識 を高揚させるために、ルーマニアなどでは自国のルーマ ニア系を固めるために政治的に利用されている側面が あることは忘れてはならないところです。

   ハンガリー国内の動きとして、二〇〇一年には、「同胞」 である近隣諸国居住のハンガリー系に対し、ハンガリー 国内での教育・文化等の分野において優遇措置を施すこ とを柱とした「地位法(ステータス法)」が成立していま す。また、二〇〇四年には、近隣諸国のハンガリー系住民 に二重国籍を付与するかの国民投票が実施されました。 (結果は投票率が低かったために無効)

  これに対して、ルーマニア、スロバキア政府はハンガ リーによる勢力拡大への動きと懸念し、内政干渉として 非難しています。地位法に限っては、EU側からも欧州基 準に適合しない項目があると批判されたことから、二〇 〇三年、同法は改正されました。

   このように、トリアノン条約によってハンガリー人が 近隣諸国に取り残されたことで、現在でも何かと問題に なるのですが、旧ハンガリーがそのまま領土を現在も保 持していたとなると、それはそれで新たな民族問題を生 んでいたことは間違いなかったでしょう。というのも、現 在のハンガリー共和国の人口構成は、ハンガリー人が九 十八パーセントであるのに対し、トリアノン条約以前は、人 口構成から見てハンガリー人は半分程度、残りは、ルーマニ ア人、スロバキア人、クロアチア人、セルビア人、ウクライ ナ人、ドイツ人などでした。

   国内に小数民族を抱えていると、権利の保障・拡大、ま た中央政権での権力闘争などでかならず摩擦が生じ、そ れが高じると内紛に発展したり、一民族の独立につなが ったりもします。旧ユーゴスラビアの国々が辿った道を 見てみれば、それは一目瞭然のこと。民族間の亀裂を利 用して、背後で大国の食指が動くこともあります。「少数 民族を抱えるのは当たり前」という欧州にあって、人口の ほとんどが単一民族というハンガリーはむしろ珍しいく らいなのです。ですから、トリアノン条約によって領土が 縮小されたことにより民族はほぼ単一化し、一九八九年 の体制転換以降も国は、国内民族紛争にカネも時間も労 力も奪われることなかったということは留意すべき点で しょう。従って、トリアノン条約も現在のハンガリーに とって凶となったか、吉となったのか、結果としてそれは 簡単には判断できないことなのです。


パプリカ通信2006年4月号掲載