美しいひとに

糸見 偲

私が始めてその人に会ったのはもうずいぶん昔のこと。そう、まだ私が長いお下げをしている十代の頃だった。細い体にトルコブルーの大きな襟のスーツを着てフワッと私の前に現れた。「なんて美しい人!」周りの景色を全部消してしまうくらいの美しい人だった。あの強い印象の日から五〇年以上も経つけれど今でも、私達には細くて長い付き合いがある。先日、ひょんなことで彼女と電話で話すことがあった。久しぶりの声を聞いたら嬉しくて懐かしくて、一気に昔のことがよみがえってきた。

一九五五年、はじめての日仏合作映画の製作発表があった。あまりに昔のことなので正確な期日は覚えていないけれどある日の夕日、フランスから合作映画のプロデユーサーと監督が来日し、下北沢の私の家に現れた。その頃私の家にはフランスの新聞記者が下宿していたから彼が招いたのだろう。後で聞いたのだが映画のヒロインの妹役を探していたので、私はどうかと言う事だったらしい。結局、妹の役は既にスターの仲間入りをしているチャーミングな眼をした女優に決まった。そして映画のヒロインが、私が今でも憧れてやまないその人だった。一九五六年に撮影を開始した「忘れえぬ慕情」は初めての日本とフランスの合作という事もあったがジャン・マレー、ダニエル・ダリューという、当時フランス映画界の大物スターと彼女が競演すると言うことで大きな話題になった。彼女は一九五一年にデヴューするとあっと言う間にスターになり日本で一番忙しい女優の一人となっていた。主演する作品という作品は何れも評判となり、彼女が現れる所には常に黒山の人だかりがあった。合作映画が完成しても彼女は休む間もなく次々と主演映画を撮り続けていた。そして一九五七年「雪国」の撮影を終えると、彼女は風のように日本を去っていった。

合作映画の監督との愛を成就するためパリへ旅立っていった。春の風に髪をなびかせて颯爽と飛行機のタラップを上っていく彼女の姿は潔いというか凛として美しかった。

それから二年後、私は彼女の住むパリにいた。その間に私も結婚し、後に別れた。パリには誰も知り合いがいないので私はたびたび彼女のアパートを訪ねていた。彼女の住まいは凱施門の近くにありそこの最上階にあった。六階まで上がって玄関を入るとカーブした廊下がありそこを過ぎると広い円形の踊り場があった。その踊り場に沿って階段があり下の大広間に続く。五階六階が吹きぬけになっているので踊り場に立つとまるで宙に浮いた様な錯覚を覚えた。玄関のベルを鳴らすと微かにタカタカと階段を駆け上って来る彼女の足音が聞こえる。懐かしい足音、今でもよく覚えている。広い踊り場には大きな丸い食卓があって客が来るとその上に古伊万里の皿が置かれ食事が用意される。私が、時々源衛門の皿にハンガリー料理を盛ったりするのは彼女からの影響である。広間にはいつも素敵な客が集まっていた。そんな中をおしゃれな猫の様にしなやかに周り回って客を接待する彼女は素敵な女主人だった。「ケイコ!ケイコ!」みんなの声が聞こえる。映画のワンシーンのような忘れられない情景である。本当に何時でも、何処にいても彼女は絵の中心だった。パリでは一緒にフランス語を習いに行ったり、買い物をしたり食事を作ったり懐かしい思い出がいっぱい。

半年近くをパリで過ごしたあと、家の事情で日本へ戻った私は乞われて舞台女優になった。女優になるに当たっては多くの反対があった。彼女からも反対の手紙をもらった。でもなってしまった。理由は小さい頃から憧れていた男優と一緒に舞台に立てると言う単純なこと。私は「西夏の女」、彼は「趙行徳」。一ヶ月近く続く「敦煌」の舞台だった。でも彼は突然に降板して違う男優に代わってしまい夢心地は一日にして終わってしまった。女優の生活は性に合わなく、この敦煌だけで辞めるつもりだったが結局ずるずると一年近くも続けてしまった。

その後は映画ペンクラブの会員として雑誌や新聞に映画評論やスターの話題などを書き始めた。フランスの女性雑誌「エル」の日本特派員にもなったので毎年パリに行くことが出来た。そして必ず彼女の住まいを訪ねた。一九六四年には彼女の娘の出産に居合わせた。デルフィンと名付け日本名は麻衣子とした。「羽衣子にしようと思ったけれどフランスでウイ、ウイは変でしょ、だから麻衣にしたの。衣と言う字が好きなの。」病院から帰ってきたばかりの彼女は愛娘を抱いて美しかった。

一九六七年、私はカンヌ映画祭で運命の人に出会ってしまった。この年、最優秀監督賞を受けたハンガリーの監督とインタビューがきっかけで知り合い、その五年後には日本での生活全てを捨てて鉄のカーテンを飛び越えた。「第二の岡田嘉子になるよ!二度と日本に来れなくなるかもよ!」そういう皆の声を振り切って跳んだ。今から思えばずいぶん大胆なことをしたと思う。今年の冬、ヴィクトリアの滝を見に行った。滝の近くでバンジージャンプをしている人たちを見た。あれは見ていても恐いから飛ぶ人はすごい勇気がいるだろう。ふと結婚とバンジージャンプは似ているところがあると思った。あの時、思い切って飛んでいなかったら私の第二の人生は始まらなかった。それからと言うもの、社会主義国で生活していくのに必死で、日本もフランスも遠くなっていった。一九七五年の元日、男の子を産んだ。ハンガリー名をバーリント、日本名は元日生まれなので黎明旭日から黎と名付けた。「娘だったら羽衣と付けたかった。」と彼女を思った。そしてこの子とは日本語でしか話さないと決めた。「自分の娘と日本語で話せないくらい淋しいことは無いわ」と言う彼女の言葉を思い出したから。

一九八九年の春突然に彼女が取材でブダペストに現れた。久しぶりの再会で積もり積もる話をいっぱいした筈なのに全然思い出せない。それから半年後、オーストリーと国境を分かち合うハンガリーの小さな町ショプロンでピクニック計画と名うって東独の人たちが国境を突破して行った。それをきっかけにベルリンの壁が崩壊し、東欧の社会主義体制も次々と崩れていった。八八年から八九年は東欧の人間にとって大変な年だった。彼女はそのことを予知していたのだろうか。

二年前、私が企画した「富士展」がブダペストの国立美術館で開催された。富士山は私の憧れの山である。綺麗な山は沢山あるが、美しいと言う山は私にとって富士山だけだ。富士はいつ見ても、何処から見ても凛として美しい。それと同じく綺麗な人は沢山いる。でも美しい人は私にとって後にも先にも彼女なのである。何に対してもひたむきで機知に富んだ話し方は魅力的で、つい引き込まれてしまう。背筋をしっかり伸ばした立ち振る舞いは潔さが感じられ格好良い。イヴとケイコのカップルはずっと続くと思っていた。離婚の原因が彼女の強くなっていく日本への思いと知って私には分かるような気がする。私も年月と共に日本に対する慕情のようなものが強くなっていく。日本へ帰らないと不安になる。根無し草になるようで不安になる。日本を去って三十五年にもなるのに顔はいつも日本を向いている。

九月の終わり、私はパリのシテ島周辺にいた。小雨降る寒い日だった。サン・シャペル教会のステンドグラスを見に来ていた。ここの近くに彼女の住まいがあると云う。ふと何処からか彼女が現れるような気がした。コートの襟を立てて傘も差さずマロニエの落ち葉の上をさっさと真っ直ぐ歩く彼女の姿が見えるような気がした。逢いたいと思った。

二〇〇七年初秋 パリにて

 


パプリカ通信2007年11月号掲載