トコロかわれば...
ハンガリー人はよく自分達のことを「ペッシミシュタ(悲観主義者)」と表現する。なにしろ、国歌からしてそうでしょう、、と。 果たして実際もそうなのか? 今月は、ずっとグルグル、グルグル考え続けてきたこのテーマについて書いてみよう。
敵と闘う時あらば
悪運多きこの民に
苛み既に長くして三世の罪を償えば
ハンガリー国歌(ヒムヌス=賛歌)の歌詞である。要約すると「神よ、これまで戦いに敗れ続け、他民族の支配に置かれたこのハンガリーを護りたまえ」といった内容である。
クルチェイ・フェレンツが作詞したのが一八二三年なので、その後もハンガリーは戦いに敗れ、第二次世界大戦後はロシア共産主義の衛星国としての間接的支配を受けたことになる。国歌として正式に制定されたのは一九〇三年だが、明るく前向きなものよりも、悲壮感に富んだ重いものを選んだということ自体、この国の人たちの趣向を表わしているかもしれない。
それにしても、ハンガリー人はよく自分達を悲観主義者と言う。体制転換後初めて政権を率いた故アンタル首相も、あるインタビューで自国民のことをこう語っていた。加えて、ハンガリー人論として悲観主義をテーマにした研究(?)も数々ある。文学や児童文学も勧善懲悪とか、ハッピーエンドではなく、冷酷な結末を迎える作品が多いと言われる。
民族音楽を聞いても、母親の腕に抱かれて心地よく寝てしまうような「癒し系」音楽からは程遠いし、開放的で希望や勇気が湧いてくるというのとも違う。学術的なことはほとんど知らない私でも、あの五音音階のメランコリックな音色は心の琴線に触れ、人生の哀愁を感じないわけにはいかない。
少し逸れるが、一九三三年に作曲され、今でも伝説のようになっている「暗い日曜日。」「いつも一人ぼっちで、日曜なのに誰も訪ねてきてくれやしない」といった内容が物憂げな旋律で語られる歌である。これを聴きながら、または聴いた後で自ら命を断つ者が続出し、当時世間を非常に騒がせたという。作曲した本人も後に自殺している。この歌の別名は「ハンガリアン自殺ソング。」作詞、作曲ともハンガリー人だったためである。悲観主義者になる背景
ハンガリー人が「悲観主義者」になるのは、いくつかの背景があると言われている。まず初めに歴史、政治的背景。ハンガリー人(マジャル人)の先祖がウラル山脈からカルパチア山脈に囲まれた盆地に移動、定住したのは九世紀末のこと。これがアルパード朝の始まりとなるが、その後キリスト教を国教として受け入れ欧州諸国の仲間入りをした。ハンガリー王国は北部のスロヴァキア(モラヴィア)、南部のクロアチアのスラヴ人を支配下に入れ、さらにトランシルヴァニアにも勢力を伸ばすまで発展し、当時は多民族国家であった。この頃がハンガリーの絶頂期であり、中欧の強国として君臨していた。
しかし、その後は黒星続きである。主な負けた戦、挫折した革命を以下挙げてみよう。@モハーチの戦い(一五二六年)オスマン帝国による攻撃:国は三分割され、東南部と中部の三分の二をオスマン帝国、北西部をハプスブルク家のオーストリアによって支配を受ける。ハンガリーの国土では、両帝国のぶつかりあい続いたが、一六九九年のカルロヴィッツ条約で旧ハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲。Aハプスブルク家支配に対する蜂起(一八四八年):その後一年半に及ぶ革命戦争。独立は得られず失敗するが、その後六十七年、オーストリアと「アウスグライヒ」と呼ばれる妥協と融和を通して「二重帝国」が設立。これによりハンガリーは内政に関しては自治権が与えられ、帝国領土内のルーマニア人、スロヴァキア人、セルビア人といったマジャル民族以外の民族も支配する側になった。十九世紀末にかけては経済が繁栄し、文化や芸術が花咲いたが、一方で真の意味においては、ハンガリーとオーストリアは一対一という対等な関係ではなく、フランツ・ヨーゼフ皇帝がハンガリー王国の国王となり、また「共通事項」として残った軍事と外交は皇帝の任命する大臣の管轄下に置かれた。B第一次世界大戦(一九一四〜一九一八年):敗戦国となり、オーストリアとの二重君主制が解消される。そして屈辱のトリアノン条約受諾(一九二〇年)。この条約により、トランシルバニアなど面積で七〇パーセント以上、人口で六〇パーセントパーセント以上失った。これが何百万ものハンガリー系住民が国外に留まってしまった原因であり、今でも怨みがましく「昔は海もあったのに、高い山もあったのに」と言うハンガリー人が絶えない理由である。C第二次世界大戦:
トリアノン条約で失われた領土の回復を目指して枢軸国側について敗北。ソビエト連邦の影響下、共産主義国ハンガリー人民共和国に。ソ連の衛星国家の一つとなった。Dハンガリー動乱(一九五六年):
ソ連の影響排除、民主化など求めて人民が蜂起。しかし結局ソ連軍が介入し、鎮圧される。その他にも、いくつか独立を求めて立ち上がったものがあったが、いずれも失敗している。
一九五六年の動乱後は、政権を保つためにも締め付けが緩和されたものの、数十年にも渡る共産主義体制の下、経済活動や自由が制限されたことは人々に大きな影響を与えたはずである。先日、ルービックキューブの生み親で六〇代になる、ルビク・エルヌー氏がテレビのインタビューで「我々の世代は、物事を正面から見るのと、背後から見る、という方法で慣れてきたからね」と語っていたが、まさにそうだろう。すべてのことを手放しで喜んだり、そのまま無邪気に受け入れたりするのではなく、一度は疑ってみる、というような気質が生まれる(もしくは強められる)結果となったのだろう。
さて、戦いに敗れたというわけではないが、その後も期待は裏切られている。その一つは体制転換(一九八九年)で、もう一つはEU(欧州連合)入り(二〇〇四年)である。人々は体制転換後、選挙や言論の自由、旅行の自由などの「自由」が手に入るのと同時に、市場が自由化されれば経済も好転し、西側のような豊かな暮らしができるようになると期待した。しかしご存知の通り、それは淡い夢となった、、というどころか、現実はさらに厳しく、ビジネス成功者はどんどん富を蓄えて行ったというのに、競争の波に巧みに乗れなかった他の大多数の市民の暮らしは、毎月の家計簿の帳尻を合わせるので精一杯となった。社会主義時代は、西側に比べれば貧しかったが、皆がどんぐりの背比べのようだったし、最低限の生活はしていけた。
EU加盟も、それ以前の一九九九年のNATO(北大西洋条約機構)加盟も、悲願であった西洋回帰を果たす重要なステップだったが、現実には、組織の枠内に入っても実生活は一夜にして恵まれたものに変わるはずもなかったのである。
そして現在。昨年夏以来の政府の財政赤字削減計画の影響で、ガス代、公共輸送機関の切符代、給食費、卵、肉、何をとっても値上がりしている。おまけに補助金は廃止になったり条件が厳しくなったり。一般市民の重税感はかなり重い。言語の特異性
もう一つの「悲観主義者」の背景として一部で挙げられるのは、言葉の特異性である。ハンガリー語が、かつてアメリカに渡ったノイマンらハンガリー人科学者らが話していて「火星人(異性人)の言語」と畏怖の念を抱かれながら言われたことはよく知られているが、実に近隣諸国の言語とはかなり異なる。ハンガリーだけが中欧でぽっかり浮いたような存在である。これがアジア系を出自とするハンガリー人の特異な民族性とあいまって、「自分たちは欧州にいながらもどこか違う」という疎外感や孤独感といったものをどこかで抱える要因となったのかもしれない。
確かに、ハンガリー人は職業や学歴に関わらずいろいろと考えている人が多い。その意見は、利己的、屁理屈、ということも頻繁にあるが、「意見すらない、」また「意見があっても言い方を知らない」人間が多い日本から来た者から見ると、新鮮な驚きである。表面では全く気付かなかったが、ある時「え、そんなに深く考えていたの」ということに驚かされることが幾度もあった。
これが言語に起因するものなのか、それとも教育や文化の影響なのかは疑問である。しかし仮に、一部にでも言語のためとすれば、確かにあのやたらに細かい文法規則を使い分けるということは、物事を大まかにではなく細部にこだわって分けて考えることになっているのかもしれず、それが深く思考するための秘めた力になっているのかもしれない。そして、人間はたいてい深く思考すると、どうしても楽観的と言うよりは悲観的になりがちでぐるぐる回って出口が見えなくなる。それに、理想が高くなって簡単なことでは満足いかなくなる。
ハンガリーとフィンランドが世界でも最も自殺率が高い国の一つであったのを捉えて、中にはそれは両国の特殊な言語が影響しているという説を唱える研究者もいた。フィン語も北欧の中で孤立した言語であり、またハンガリー語とは遠い親戚のようなものである。しかし実際のところ、これは有力説とはなっていない。
最後に、悲観主義者形成の背景としてよく言われるものをもう一つ挙げておこう。それは地理的な特徴である。欧州のほぼ真ん中に位置するハンガリーは、古来より様々な民族が侵入を試みた。そして、過去一〇〇〇年は他民族の支配を受けたことは歴史的要因のところでも見てきた。何でもユーラシア大陸を模した陣取りゲームがあるらしいが、そこではかならずハンガリーに位置する国が何故か負けるらしい、とあるハンガリー人友人から聞いた。それ以来筆者はこのゲームをずっと探して試してみたいと思っているが、もしかしたらハンガリーの歴史を憂う人たちがまことしやかに流した噂だったのかもしれない。
一方で、ヨーロッパの文化の中心からは離れていた、という事実が一種の劣等感として残っているという。そもそも論しかし、どうしても一〇〇パーセント納得いかないのである。これら通説となっている背景も、確かになるほどと思う点もあるが、戦争で負け続き、いつも他民族(他国家)の支配にあったという国は他にもあるし、言語の特異性も決定的なものとも考えられない。これらの要素が混交して「ハンガリー人の悲観的な側面」が作られたということになるのだろうが、それでも腑に落ちない。
そうした判然としない気持ちは、「だいたいハンガリー人ってそんなに悲観的なのだろうか」というそもそもの所で引っかかるからである。言葉の意味が気になって、国語辞典を引いてみた。「悲観とは、物事が思うようにならない、ならなかったので、希望を失って力を落とすこと。悲観的とは、物事がうまくいかないと思う、思いがちな様子」(新明解国語辞典)
確かにこれはある程度あたっているのだが、ハンガリー人が言う「悲観主義」は、筆者にとってみると「愚痴、」「不満」という色合いの方が濃い感じがしてならない。当地に居を構えるアメリカ人やその他外国人と話していても、「いや、ハンガリー人は『悲観主義者』で参ったな」と言うよりは、「愚痴ばかりで参った」とか「行動する前に難癖つけたり文句を言ったりする」という方を聞く。
つまり「今、私(僕)がこんな生活しているのは、すべて周りが悪いから。いいことなんて何もない。他の人は恵まれているのに、私(僕)はとても恵まれていないと思う」というような自己憐憫というか、責任はすべて外部にあるという転嫁型である。また、「何かをしよう」と決めても、「いや、でもこうしたことが問題だ」という類の発言が続出してまとまらないこともある。
他民族の支配下やソ連の影響下にあった時、不幸の原因は支配民族にあった。従って、責任はすべて支配民族に押し付けておけばよかったが、同時に自分たちでどう責任を持って立ち上がり、国を治めるかという訓練もしようがなかった。そして、いざ自らの足で立つことが許され、自由選挙という権利も付与された後も、今度はどう進めればよいのか分からず、政権が悪い、行きすぎた自由や競争をもたらした体制が悪い、、などとなっている。
ジョン・F・ケネディ故大統領の就任演説で、「我が同胞、アメリカ人よ、国家があなたに何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが何を国家にできるのか問うてみてください」という名文句があるが、これほどハンガリーに似合わないものはないのでは、と思う。もちろん共産主義体制下では国家は決して国民を護る美しいものではなかったから仕方がないのだが、体制転換後も「国民一丸となって国を発展させよう」というよりは、「何をもたらしてくれるのか」にまず期待がいった印象を受ける。だからこそ、もたらされなかったことに対する不満が渦巻き、落胆する。
もっとも、筆者の周りには「いわゆる悲観的」でないハンガリー人も多い。愚痴はこぼすが、前向きに進む人も多い。結局のところ、ハンガリー人の悲観主義者論もxx人はケチだとか、○○人は恋愛ばかりに夢中、という類のステレオタイプではなかろうか。ステレオタイプは「はずれ」ではないけれど、「一〇〇パーセント当たり」でもない。
しかし自分のことはさておき、ハンガリー人全体について尋ねられたら、ハンガリー人の百人中九十五人くらいは「ペッシミシュタ」と言うのではなかろうか。それで、愚痴ばかりのハンガリー人のことを愚痴ったりして、「こうした人達の性質は変わらないだろうね」と「悲観論」を打ち出したりするのである。結局のところ、ハンガリー人自身が、外国人以上に自分たちのことを「悲観主義者」とレッテルを貼っているような気がする。豆知識:
ハンガリーはかつて「自殺大国」とまで言われた国。十万人中の自殺者率は七〇〜八〇年代には四〇人を超えていた。ハンガリー人の悲観主義が原因の一つとよく言われたが、その後専門機関などが欝病患者に対する治療や予防を強化したこともあり、割合は二四・八人まで低下している(WHO、二〇〇三年)。昨今はリトアニア、ロシア、ベラルーシ、ウクライナといった国々が三〇人以上で上位にランクされる他、日本の自殺者の割合も二〇名を超え上昇している。
パプリカ通信2007年11月号掲載