社会・経済を比較する(その一四)

迷路に迷い込んだハンガリーの健保改革ー映画「Sicko(スィッコ)」から学ぶもの

盛田 常夫

健康保険制度改革をめぐって、ハンガリーの政治が混乱している。法案審議の段階に入っても、連立政府を構成している社会党とSZDSZとの攻防が続き、野党のFIDESZだけでなく、労組までが政府案反対を掲げるストを打つ事態になっている。十二月十七日に法案の採決が予定されているが、たとえ法案が通っても、「改革」された制度が機能するどころか制度改変に伴う混乱の社会費用が「成果」をはるかに凌駕するだろう。FIDESZが政権を握れば制度を元に戻すと公言しているから、膨大な時間と混乱のコストをかけて議論してきた「改革」制度も「元の木阿弥」になる。まことに壮大な社会的無駄。 十七日の投票では社会党の一部議員が反対に回れば、法案が否決される。政府首脳はその可能性を否定していない。そうなれば、連立解消にまで発展し、ハンガリーの政治は流動化する。権力を守るために法案を通すのか、それとも政党の理念を盾に法案を廃棄に追い込むのか、激しい攻防が続いている。しかし、いったい、政府は何を目的に、どのような制度改革を実行しようとしているのだろうか。

複数保険制度

問題の発端は二〇〇六年の連立政府樹立まで遡る。厚生大臣ポストを獲得したSZDSZは健保制度の根本的改革を主張するモルナール・ラヨシュを大臣に据えた。モルナールは健康保険の複線化実現を大臣指名受諾条件とし、SZDSZがこの政策を党として後押しすることになった。健康保険の複線化とは、従来の国家による国民皆保険に民間企業の参入を容認して、社会保険と競わせるという構想である。これなしには医療改革は完成しないというのが、モルナールの持論だ。

この構想に理論的な裏付けを与えるために、ボクロシュやミハーイなどSZDSZ系の経済学者が複数保険の利点を説き始めた。国家保険と民間保険が競争することで、国家保険の独占的地位が解消され、制度の効率的運用が達成されるだけでなく、患者側に立ってより質の高い医療サービスの提供を病院側に強制できるシステムが構築される、と。要するに、社会保険の部分的民営化によって、健康保険制度をより効率的に運営できるという主張である。

今、ヨーロッパの多くの国が健保会計の赤字に悩んでいる。医療技術の高度化や人口の高齢化が進む先進国において、より効率的で高度な医療サービスをどうやって供給するかは大問題だ。FIDESZは国がもっと医療に予算をつぎ込めば問題は解決するというが、現在の制度を放置したままでは、笊(ざる)に水を注ぐようなもの。増え続ける医療費を国家財政が負担することができなくなるだろう。だから、社会保険を民営化すれば問題は解決するのか。企業の民営化と違って、問題はそれほど簡単ではない。

グロテスクな折衷案_コルナイ提案は有効か

社会党とSZDSZの連立政府が国会に提出した案は、両党の案を「足して2で割った」折衷案。両党首脳は社会保険制度の維持と民間保険業者の導入を混ぜ合わせた案をまとめ、連立政府解消の決裂を避けた。その内容は、「全国に二二の健保基金運営会社を設置し、それぞれの基金は五一%を国が、四九%を民間が出資して運営する」というものだ。民間業者の利益率は、予め二%を上限と決められている。地域的な分権化を図るのはそれなりに意味があるが、一つの基金に制限的に民間資本を入れて、システムが機能するだろうか。そもそも、最初から利益率が限定されているビジネスに民間資本を呼び込むことができるのか。

この中途半端な政府案は社会党にとってもSZDSZにとっても不本意なもので、連立解消の危機を避けるためにとにかく折衷案を作ったというのが真相だ。まさに「虻蜂取らず」。いったい何をしようとしているのか分からないという批判がでるのは当然で、その批判を避けるために、社会党は政府提案に二〇〇以上の修正案を出して、「SZDSZの主張が諸悪の根源」だと見せたいようだ。

法案が国会に提出された段階で、コルナイはこの折衷案を「グロテスク」と表現し、「コーヒーか、紅茶か」の選択でなく、「コーヒーも、紅茶も」選択できるようにすべきと、社会保険を二つのセクターに分割することを提案した。「最初はすべての国民を社会保険に加入させ、そこから自分の意思で民間保険に移行できるようにする」という。Népszabadság紙四面の紙幅を使った大仰な言説の割に、内容が陳腐だ。事実、野党の政治家からも、コルナイ提案に厳しい批判が寄せられた。FIDESZのミコラ・イシュトヴァーンは、「コルナイは地上の論争を避けて、いつも象牙の塔から物を言っている。医療が経済学よりもはるかに増しなもので価値あるものだということを理解していない」、と。

現在の政府案へのコルナイの批判は見当外れで、政府案は「コーヒーか、紅茶か」の選択を迫るものではなく、「コーヒーと紅茶を混ぜた」代物だ。こんなものが飲めるわけがないが、連立与党は相互に修正案を出し合って、この新制度がとにかく機能するのが先決だと考えている。コルナイの提案も社会保険と民間保険を同一レベルで扱うものだから、「コーヒーか、紅茶かの選択」の域を超えていない。真の問題は、コーヒーや紅茶に付けるケーキやアラカルトをどうするかだろう。部分的であれ全面的であれ社会保険の民営化で処理するのか、それとも社会保険を存続させながら、その枠外でアラカルト処理するのか。コルナイの案は、前者の処理を主張するSZDSZ案の一つのヴァリエーションにすぎない。

健保の二極制度_映画「Sicko」のテーマ

世界には対照的な二つの健保制度が存在する。一つは社会主義下の完全国家保険制度であり、もう一つはアメリカにおける完全民間保険制度である。極言すれば、前者の制度下では医療サービスは基本的に無料で、後者の制度下では(任意)保険料を支払った者だけが「厳密に担保された保険部分」についてのみ無料で診療が受けられる。

今、この双方の制度とも、再検討と改革の課題に直面している。ハンガリーのような社会主義制度から転換を遂げた諸国では、どこでも、旧来の制度の改革が日程に上っている。何よりも、財政が耐えきれないからだが、その制度改革の一つとして、基礎保険部分にアメリカ型の任意保険制度を導入する試みが流行している(チェコでも同じ「改革」が日程に上っている)。

他方、アメリカでは保険に加入できる富裕層と保険に加入できない数千万の貧困層との矛盾を解消しようと、クリントン女史は国民皆保険構想を提起している。ただ、アメリカでは皆保険のような社会保険は社会主義制度だという先入観が強く、これまで医療皆保険導入の試みはことごとく失敗している。

タイムリーなことに、アメリカの医療制度の問題を扱ったマイケル・ムーアの新作Sickoが、現在、日本(8月末封切り)とハンガリー(11月封切り)で上映されている。(タイトルのSickoは、ハンガリー語でcsúnya<醜い>と表現するのがぴったりの意味。ただし、日本語タイトル「シッコ」はいただけない。日本語が分かる外人ならトイレに案内されるのが落ちだ。「スィッコ」と表記すべきだろう。)

映画は指二本を切断した大工のインタビューから始まる。皆保険でないアメリカでは、指一本ごとに縫合の医療報酬が設定されている。無保険のこの大工、薬指の縫合が一・二万ドル、中指の縫合が六万ドルと言われ、薬指だけ縫合してもらった。日本でも保険がなければ安くはないだろうが、ここまでビジネスライクに扱われることはない。アメリカの任意保険制度では支払う保険料額よって、無料で受けられる医療行為が厳密に規定されている。この大工がたとえ医療保険に入っていたとしても、安い保険では二本の指の縫合を保険でカバーすることはできなかっただろう。アメリカで保険診療を受ける場合、事前に保険会社の承認を得ることも必要だ。救急車で運ばれる場合でも、保険会社への事前の通告や承認がないと、保険会社は医療費の支払いを拒否できる。

要するに、アメリカではまともな治療を受けようとすれば、かなり高額の保険料を支払う必要がある。日本企業の派遣社員の場合、年間数百万円の保険料を払ってあらゆる事態に備えているが、五千万人近い貧困層にとって、そのような高額の保険料を払う能力はないから、これらの人々は無保険状態のまま放置されている。

無保険のアメリカ人は病気になっても簡単に病院へ行けない。重篤の場合、野垂れ死にするか、救急救命センターに担ぎ込まれる。民間病院へ無保険の救急患者が運ばれると、最小限の処置を行った後に、タクシーで救急救命センター前まで患者を運び、その前に放置する。何とも非情だが、これがアメリカの現実。

他方、このようなビジネスライクな制度が存続するメリットは何か。病院にとっても、民間保険会社にとっても、高額保険者が払う高い保険料がシステムを支える。当事者たちは安い保険の患者に関心がない。高額保険患者を引き受ければ、病院は設備の拡充や最新の医療機器で医療サービスを拡充することができる。そうすれば、さらに高額の保険者を受け容れることが可能になるから、病院経営の収益が上がる。これがアメリカの病院の革新競争の原動力だ。他方、保険会社にとって安い保険料を集めるよりは、高額の保険料を払ってくれるお客を集めることが会社の収益に繋がる。だから、病院と保険会社の利害は一致し、アメリカの高額保険支払い者は世界最高の水準の医療を受けられる。民間保険会社は政治家を取り込んで、何としても社会保険導入を阻止するだろう。保険会社のロビー活動がこれまで皆保険の導入を阻止してきたのだ。

こうして、アメリカでは最新の診療を受けられる富裕層と無保険状態の数千万人の貧困層が共存している。

社会主義的制度の問題-映画「Sicko」が見落としたもの

映画「スィッコ」の最終場面では、九・一一で健康を害した救命士たちが、アメリカで満足な治療を受けられないためにキューバに渡る。キューバの病院で無償の手厚い看護を受けた救命士たちが涙を流す。アメリカの利益優先の医療制度と社会主義の医療制度の違いが際立たされる。ムーア監督の目的はアメリカの医療制度の欠陥を赤裸々にすることで、社会主義の医療制度を賛美することではないが、このような結末は社会主義制度がもっている矛盾を隠蔽する。アメリカの制度が悪で、社会主義制度が善という単純な図式はいただけない。

ハンガリー人のように、これまで国家保険制度しか知らない国民にとって、アメリカの医療制度がどう機能しているのか見当も付かなかっただろうが、この映画のお陰で、アメリカの現状の一端を知ることができる。他方、社会主義時代から続く医療制度の根本的欠陥を適切に解明できる人は多くない。ハンガリー人は現在の医療制度に慣れきっているから、不満はあってもどこをどう直せば良いのか分からない。そのことも健康保険をめぐる議論の混乱に拍車をかけている。

では、何が社会主義医療制度の問題か。現在のハンガリーの医療制度は、基本的に社会主義時代のものをそのまま受け継いでいる。地区診療所、地域専門病院、総合病院から垂直的に構成される医療制度は国営で、国民が診療所と病院を自由に選択できる権利はない。だから、特定の医師に診てもらいたければ、コネと謝礼金が必要だ(この点は日本でも同じだが)。さらに、入院患者は皆、担当の医師や看護婦に心付けを渡す。これが安月給の医者や看護士の副収入になる。病院にきた患者を自宅に招き、裏診療を行って謝礼金を受け取る医者もいる。このように、縦割りの医療システムが医者の裏金活動を許している。

さらに、国営病院では自立した病院経営者が不在だ。医師は患者を治療するだけでなく、事実上の自主管理システムで病院を支配している。だから、自然と、病院総体としての医師や看護師の管理、収入・支出の計画、将来の発展計画などが蔑(ないがし)ろにされている。筆者はこのような旧社会主義的な医療システムを「医師主権」、「医師自主管理システム」と呼んでいる。

社会主義制度下の病院の医療サービスの質は継続的に低下してきた。その低下に歯止めがかからず、多くの病院は倒産寸前の状態だ。まさに、社会主義企業・組織の継続的退化は歴史法則のようなものだ。医療サービスを向上させようという内的なインセンティヴが存在しないからだ。だから、ハンガリーの多くの病院のベッドは何十年も取り替えないまま使用され、トイレやシャワー室はとても文化的な水準にはなく、トイレットペーパーすら備え付けられていない。朝晩の食事はほとんど監獄並のレベル。パンの塊に、小さなジャムとマーガリンが付いてきて、薄いコーヒーか紅茶が飲み物。毎日、朝晩はこれだけ(昼には温食がでるが)。

要するに、旧社会主義国の医療制度は、現在もなお「安かろう、悪かろう」の世界である。筆者はこれをKGST(コメコン)商品・サービスと名付けている。こんなシステムが望ましいはずがない。アメリカのシステムと同じように、Sickoだ。民間保険の条件_何から手を付けるべきか

このように見ると、やはり社会保険に民間業者を入れる他に方法がないではないかと考える人もいるだろう。だが、問題はそれほど単純ではない。

民間保険が機能するためには、それなりの条件が必要だからだ。

アメリカの事例で分かるように、民間保険が機能するためには、多数の民間病院(医療機関)が存在し、かつ高額の保険料を払える社会層が存在することが、必要十分条件だ。これらの条件がないのに、形だけ民間保険を導入しても、患者に病院選択の余地がなく、システムにフレッシュマネーが入らないから、医療サービスの質は向上しない。これは自明なこと。だから、連立政府が導入しようとしている社会保険の枠組みに民間企業を入れる構想は、成功する条件がない。保険会社にとってメリットはないし、被保険者にも高い保険料を払う意味がないからだ。逆に、現在のハンガリー社会の現状で、社会保険部分に民間業者が入れば、保険の安売り競争が起きるのが関の山だろう。それは自動車の強制保険をみれば分かる。安売り競争が始まれば、フレッシュマネーが医療分野に入るどころか、資金の先細りが起こり、医療サービスの向上は見込めない。野党は医療サービス向上の道筋が見えないこと政府案批判の一つにしているが、それは当たっている。

では何から手を付けるべきか。明らかに、診療所や専門病院の民営化、あるいは民間の診療所・専門病院設立の自由化にプライオリティが与えられるべきだ。病院間の競争がないのに、保険だけ民営化しても、被保険者は対価に対応する選択権を行使したり、医療サービスを受けたりすることができない。民間保険を導入する前に、民間医療機関設立を自由化するのが前提条件だ。

逆に、多数の民間病院設立の条件ができれば、社会保険の民営化が可能になるだろうか。ここからが社会をどう改革していくかの価値観の問題になる。そもそも、医療にかかるリスクと負担を個人に任せるわけにはいかないから、社会総体としてリスクと負担を分け合うのが社会保険だ。どこまで共通で負担するかはそれぞれの社会経済発展水準によって異なるが、基本的な医療サービスで個々人を差別しないというのが社会保険制度。こういう基本的な価値観を共有するのか、それともアメリカのように社会が負担を分け合うのは社会主義だから個人ですべて負担すべきだと考えるのか。

もしアメリカ型のシステムに変更するのでなければ、社会保険の基本的枠組みを保持しなければならない。もし基本的枠組みに中途半端な民営化を導入すれば、社会保険制度を崩壊させることになるだろう。だから、もし社会保険制度を維持するのであれば、民間保険は付加的な任意保険の形で導入する以外にない。ただし、民間の任意保険が機能する前提条件として、民間の診療所、専門病院が多数生まれなければならない。それなしでは、任意保険が医療サービスの向上に寄与することはない。これも自明のことだ。

そもそもハンガリーに市場経済は未だ発展途上にある未成熟な経済だ。所得水準が低いから、市場も狭く浅い。高額の医療保険を払える層は薄い。そういう環境の中で、社会主義時代から受け継いだ医療制度を改革しなければならない。部分的にせよ、一足飛びにアメリカ型を導入して成功するはずがない。勘違いも甚だしい。民間保険が機能する前提条件を無視して、社会保険の民営化が議論されているところに、混乱の最大の原因がある。それを誘導している経済学者の責任も大きい。まず民営の診療所、専門病院の創出を優先させ、次いで社会保険の枠外で任意の民間保険を導入するのが望ましい。そうやってしか、医療サービス水準を引き上げることができない。

社会的規範の変革の必要性

何でも民営化すれば解決すると考えるのは、あまりにナイーヴだ。IMFのエコノミストが、体制転換直後の中欧諸国に急進的な民営化を助言し、ハンガリーの改革プロセスを批判し、クーポン民営化を採用したチェコを賞賛したことは記憶に新しい。チェコでもロシアでも、クーポン民営化という名目のもと、国家資産の多くが事実上横領されたことは周知の事実である。IMFやそのアドヴァイザーたちが、今度は、中欧諸国の経済学者と一緒になって社会保険の民営化を後押している。それぞれの国民経済の特性や構造を無視した処方箋が成功した試しはない。残念ながら、経済学は物理学や化学のような精緻な学問ではなく、常にイデオロギー的な役割を果たしている。だから、経済学者の論理から発せられる制度改革政策提言の有効性が確かめられた事例はきわめて少ない。だから、「複数保険制度以外に、制度を改善できる方法がない」などと主張する経済学者は、大道芸人並みの役者なのだ。

ハンガリーのような旧社会主義時代から受け継いだ社会保険制度の改革にあたっては、国民の社会規範意識の変革も必要になる。今のハンガリーの経済水準では、国が国民の医療サービスを丸抱えする余地はない。基本的な部分は社会保険で、それ以上は自助努力でやる以外にない。自助努力の部分に民間の保険を導入し、自らのリスクと費用の負担を請け負う必要がある。そのためには、国への一方的な依存ではなく、社会的連帯という社会保険の枠組みを維持しながら、個人的選択・自立の意識とそれを発揮できる制度の構築、社会保険制度の効率的運用のための改革、国民・医療機関・保険組織それぞれの個別責任と運用の透明性を高める必要がある。


パプリカ通信2008年1月号掲載