ハンガリー在住者による書き継ぎコラム『ハンガリー愉快な日々』

国境の思い出


ハンガリーと隣国オーストリア、スロヴァキアとの陸路国境では、ほんのついこの間まで当たり前のようにあったパスポートコントロール(出入国審査)が、シェンゲン協定加盟を機に不要になりました。空路は今年三月からの予定で、シェンゲン加盟国外からシェンゲン加盟国に入国する際、最初のシェンゲン加盟国の乗り継ぎ空港で入国審査を済ませると、以後協定国内は原則として出入国審査なしのフリーパスとなり、日本からハンガリーに飛ぶ場合はこのケースです。今回新たに加わったシェンゲン加盟国は、ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、スロヴェニア、マルタ、リトアニア、エストニア、ラトビアの九ヶ国で、今後はこれらの旧東欧諸国間の国境を越える際にも出入国審査なしで通れることになりました。

これまで国境を越える度に刻印されてきたパスポートを埋める出入国スタンプは、自分が歩いてきた道のりの記録でもありました。パスポートをめくると越えてきた国境の記憶がよみがえります。真夜中に星空を見あげながら越えた国境。刻々と明るんでいく夜明けの地平線を見つめ立ち尽くした国境。夜中隙間風の吹き込む列車に揺られ、ふと眠り込んだ時に荒々しく開けられたコンパートメントの扉。響き渡る「パスポートコントロール」の大声に、むしろ無事国境までたどりついたことに安堵した思い出。

そんな懐かしい記憶がある一方で、目の前で国境警備隊に連行されていった乗客、親が取り調べられ泣き叫ぶ幼い子、不審物検査のためにはがされる列車の天井など、穏やかではない場面も幾度となく目にしてきました。真夜中の国境通過時、荷物を開けるように言われ、リュックサックに乱雑に詰め込んだものをひたすら座席に広げたこともあります。黙って見ている国境警備隊の前に積み上げられていったのは、一・五リットルペットボトルの水、食べかけの菓子パン、汗くさい服、汚れた靴下、しわくちゃのレインコート、トイレットペーパーのロール、ゴミ...。全部出すのかとうんざりしていると、リンゴがひとつコロコロと床に転がっていきました。そこでようやく「OK、もういい。」と放免。怪しいものを持っていなくとも、調べられるとドキドキしたものです。ハンガリーがEUに加盟してからは、友人たちと一緒に徒歩で国境を越える際、EU市民の友人たちが身分証明証をちらりとかざして次々に隣国に入国していく中で、EU域外国籍者の私は出入国審査に手間取りなかなか通過できませんでした。そんな時には、国境の向こうから「置いていくよー」とからかう声が飛んできて笑い声がはじけることもありました。国境通過を楽しむ余裕に、時代は変わったなとしみじみと感慨深かったのも、今となってはそれすら過去のことになりつつあります。もちろんシェンゲン協定非加盟国への出入国では国境審査は依然として残っているので、全ての国境がフリーパスになるわけではなく、非加盟国からの入国審査はむしろ厳しくなっていくのではないかとの懸念もあります。なおEU加盟国間の国境の町の日常生活では、既にシェンゲン協定加盟前から国境通過の重みはずいぶん変わっていました。越境通勤者もいれば、国境を越えて隣国のスーパーマーケットに買い物に出かける地元住民の姿もあり、昼食のために隣国のレストランに出かけるという話も珍しくなく。かつてフランスとの国境に近いドイツに住んでいた頃、バスに乗ってランチタイムはフランスでなどと優雅なことを試みたことがありますが、ちょうどそんな感覚で、かつての旧東欧の厳しい出入国審査の記憶が幻のようです。昼下がりに国境にあたるドナウ川にかかる橋の上を走っていた自転車は、対岸の激安ハイパーマーケットのビニール袋をカゴに詰め込み、ハンドルにもぶら下げ、力強くペダルをこいでいました。欧州単一通貨ユーロ導入にはまだしばらく時間がかかりそうですが、いずれ「隣国に」買い物に行くという意識もなく国境を行き来するようになるのかもしれません。各国ともナショナリズムの高まりが目立つ一方で、表面的には国境が消えていくかのように見える、なんとも不思議な一時期にあるようです。
(Mioko)


パプリカ通信2008年1月号掲載