トコロかわれば...

第38回:褒めること、謙遜すること

鷲尾亜子

 この異国の地で五歳の息子を育てながらつくづく感じるのは、自分は褒めることが下手ということである。 昨日一日、あれを怒った、これを叱った、とネガティブな方は枚挙にいとまがないが、褒めたことは、はて、いったい何があっただろうかと考え込んでしまう。 一方ハンガリー人の親は実によく褒める。今月は褒めることを巡る話。

褒めちぎり

夕方幼稚園に迎えに行くと、子供が今日園で描いた絵を自分の親に見せている場面によく出くわす。たいていの親は作品を見て、「まぁー、なんて素敵なの?これ、本当に一人で描いたの?すごくいいわー!」と感嘆の叫びをあげている。音のピッチは、いつもより最低三音は上がっていると思う。

一方、私は息子が持ってくる作品を見て、よほどのことがない限り声を三音上げることはできない。家でも何十枚と同じようなものを描いているから、相当驚くような作品でないとそんなことはどうも芝居がかっているようでイヤなのである。息子をがっかりさせてはならぬと、「あ〜、いい絵が描けたねぇ」と言うのが精一杯である。

しかし、ハンガリー人のお母さんたちが芝居をしているように見えるかというと、そんな風にも見えない。「本当に素敵」と心から思っているようなのである。

とにかくハンガリーは褒め上手の親が多い。ハンガリー語で“ügyes”(ウジェシュ)という言葉があるが、これは「器用」とか「上手にできる」といった意味である。子育てをするハンガリー人の親は、この言葉をいったい一日何回使っていることであろう。こんな調子だと、本当にものすごく上手に何かできた時はどういう賞賛の言葉を使ったらいいのだろうか、と斜に構えて見てしまうほどであるが、そんなことを心配するのは私のような褒め下手の人間のみであろう。

子供のお稽古の先生もたいてい褒めるのがうまい。それに、親は、言葉少なで厳しかったり、叱ったりする先生よりは、褒め上手で子供に自信をつけさせてくれる先生がよいと思っている。ある日本人駐在員のお嬢さんは楽器を習っているが、親御さんと話していたところ、どんなへんてこりんな音を出しても先生は忍耐強く励まし、小さなことでも実によく褒めてくれるということだった。それはそれでありがたいが、逆に挫折を知らなさ過ぎてどうか、と心配されていたくらいである。

謙遜

もう一つ、自分がハンガリー人の親と決定的に違うのは、自分は他人と話すとき、息子を簡単に褒められないということである。「とても歌を覚えるのが早いわね」と幼稚園の先生に褒められても、「いや、でもまだまだ音をうまくとれなくって・・・」と欠点を持ち出してしまう。また、「ハンガリー語と日本語、両方できてすごいわね」と言われれば、「日本語もできますが、ハンガリー語の方がやはり得意です」と返してしまう。

ハンガリー人の夫にそのことを話すと、「素直にありがとう、と言って、息子本人にもそう伝えて褒めてあげればよいのに、、」と言われるが、自分の中では、褒められてシーソーの片方が上がった分、そんな風にでも言ってもう片方を下げて平らにしないと誠にバランス悪く、落ち着かないのである。

一方、ハンガリー人にとって、他人の前で自分の子供を褒めるのは極自然な行為である。一歳になったばかりの子が、もう幾つもの言葉を発しているのを見て、「すごいね��」と言うと、お母さんからは「そう、すごいでの子が、もう幾つもの言葉を発しているのを見て、「すごいね��」と言うと、お母さんからは「そう、すごいでしょう。この子、とても頭のいい子なのよ」と言われた。散歩で出会った女の子のお母さんに、「お嬢さん、可愛いですね」と言ったら、「もう、気絶しちゃいそうでしょ」と返ってきたこともあった。一瞬、聞き間違えたかと思ったほどである。

日本人の親同士でこんな答え方をしたら、例え知能指数二百以上の子供でも、また例えおとぎ話の絵本からでてきたような可愛らしい少女であっても、一遍にいやがられるだろう。内心は自慢に思っていても、たいていは「え、それほどでも」と謙遜するだろうし、最大でも「ありがとうございます」とお礼を言うに留めるくらいだろう。褒めるにしたって、「親ばかと笑ってください」などと付けるのが「正しい日本人」ではなかろうか。

連鎖

本当は、子供も褒められて育った方が楽しいだろう、と思う。どうして褒めることができないのか。どうして人前で身内を褒められないのか。

振り返ると、自分も子供のころあまり褒められたことはなかった。もちろん褒められたこともあったとは思うが、覚えている程日常的なものではなかった。むしろ、「褒められるとアコは鼻の穴がプッと膨らむね」と父や姉にからかわれるのがイヤでたまらず、褒められたらどうポーカーフェースを保つかにう専念した。ピアノも、周囲よりは大分早い速度で習得していたが、褒められることが嬉しくてそうなったというよりは、父に厳しく叱られるのが怖くて、毎日かなりの時間練習に励んだ結果である。(当時周りにはピアノをやっていた子は多かったが、毎日練習していた子は少なかった。)私の世代(つまり昭和四十年代生まれ)も褒めるのはうまくないが、親の世代はもっと褒めるのが下手だったのである。

学校に入ってからはどうだっただろう。部活動では、しごきにしごかれ、先輩やコーチに「そんなんじゃダメだ!」「何やってんだー!」と常に罵倒されていた。しかし百回そう言われるうちの一回くらい、短くてもよいから「よくやった」とキラリと光るお褒めの言葉が聞きたくて、歯を食いしばってがんばってきた。「アタック・ナンバーワン」や「巨人の星」、「エースをねらえ」あたりを観て育ってきた世代である。こんな叱咤激励の精神世界は、大方のハンガリー人には理解できないだろう。

加えて、自分や身内の自慢話も慎むように、驕ってはいけない、謙虚になれ、と言われて育ってきた世代である。そんな価値観は、未だに体に染みついている。

スイッチ

しかし困ったことに、日本では美徳に取り上げられる「謙遜さ」も、当地ではマイナスに取られたり、本当に自信がないようにとられたりすることが多い。こちらでは、自信の有無とは関わらず、過大評価しているかな、と思うくらいのレベルで喋った方が、この国の人たちの周波数にカチリと合うようである。逆に日本人と話しているのと同じようにすると、時には不自然な空気が流れてしまうほどである。「私の愚息が、、」などと言ってしまった暁には、私が本当に息子のことを「良いところが一つもない救いようもない子」と考えているようにとられてしまうだろう。実際、私の母は、私の結婚パーティで「こんな我儘な娘ですが、よろしくお願いします」と言い、英語通訳をしてくれていた友人はそのまま“Mydaughterisselfish...”と訳して、ハンガリー人招待客には大いなる「?」だったと思う。

こういうところが、言葉の難しさでもある。言語を換えて喋るというのは、単なる言葉だけではなく、背後の精神文化を理解した上で微妙に調整しないと伝わらないこともある。言い換えると、場合によっては態度や姿勢もある程度変えなければ、誤解されることもある。言葉は日本語からハンガリー語へとスイッチを切り替えればいいが、態度は同じ人間である以上、そんな風にスイッチがいろいろ作れるわけでもない。「日本の文化はこうなんです」と説明できるほどの時間があればいいが、そんな時間がある人は限られているし、実際ある程度親しくなってからでないとそんな話はあまりできないのが頭の痛いところである。

一方で、同じ言語で喋りながら、そんなつもりはなかったのに、傷つけていた、ということもあった。以前勤めていたハンガリーの新聞会社で、後輩トレーニーが持ってきてくれた原稿を読んで、「ここが足りない」「ここが論理展開がおかしい」と事細かに指摘したことがあった。後日、本人からは「アコにあそこまで言われて、自信をなくした。私は大学生のトレーニーなんだから、もっと励ましてほしかった」と言われて、本当に驚いた。私は叱咤激励のつもりだったが、そんな鮎原こずえと猪野熊コーチのような精神世界は、この国では違う星の文化のようにとられるのだろう。


パプリカ通信2008年2月号掲載